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8-3 社会形成の基盤  価値観の基底

 共通理解は「価値観の基底」と言いかえてもよい。社会形成における価値観の基底とは、「個人(他人)の領域を侵さない」という無言の約束である。

 私はこの原稿を書くにあたって次のようなメモ書きをした。

「創価指導者が持っているくらいの金が自分にあるならば、たいていのやりたいことはできる。それらをやりつくしてもほとんどの金は余ってしまうだろう。ならばそんなものを残してもしょうがないので、世のために使うとか、そういう発想は生まれないものか。人の世話は嫌いというのなら、少なくとも自分は好きなように生きられるのだから十分だろう。」

 後日、職場のストーカーを通じて返答してきた。尋ねたわけでもないのに私にものを言いたがるのは相変わらずである。

「価値観の違いだろ」

 読み取れるのはこういうことだ。すなわち、金では満たされない心の渇きがある。ストーキング、虐待、力による支配そのものこそ、こいつがやりたいこと、自己実現の手段だということである。

 文学でもない、科学でもない、冒険でもない、スポーツでも音楽でもない。虐待、支配こそ、こいつが一番好きなことなのである。

 私が見る風景はカルト信者だらけである。外では一目でキチガイとわかる者がほとんどだ。職場の信者たちは顔つきは一見普通だが、やっていることは同じである。

 ここの指導者は大金持ちで、たいていのやりたいことはできるにもかかわらず、こんなロボット人間をはべらせたいと考えているのである。そしてそうでない人間も一人残らずアリにしたいと考えているのだ。前のレポートでは「無能で臆病者のクズ」と評価したが、「精神異常者」と考えるほうがよほどすっきり理解できる。

 水泳の北島選手復帰会見のニュースを聞いた。この人は水泳選手としてこれ以上ない結果を出した人である。心置きなく次の道へ進むことができるようにみえる。しかし、WBC(野球の世界大会)を見て気が変わったらしい。

 誰しも他者に認められる自分でありたい、スポットライトを浴びる存在でありたいと思うものである。これほどの選手でもやめてしまえばさみしいということか。

 こういう世間の注目を浴びる人でなくても、それぞれの世界で輝いたり輝かなかったりすることに一喜一憂するのが人生だと思う。

 専門家(精神科医)でない私が、創価指導者の「精神異常性」についてあえて答えを書くならば、次のようになる。

「創価指導者は、他者を魅了できない自分の本性(「日常」と言いかえてもよい)に納得できず、その代償として、他者を強制的に動かすことのみに生きがいを見出した。」

 彼は、世界の最後の一人まで奴隷にしたとしても決して満足しないだろう。思いのままに動く目の死んだやつらをはべらせることは、自らが輝くことの代わりには決してならないからだ。

 多様の前提となるのは、翻訳可能性である。相手がフランス人でもアメリカ人でも中国人でも「まともな」人間とならば共存できる。和英辞典で「卑怯」「悪」と引けば、それに対応する英語が出てくる。そこには多少の文化的ずれがあるとしても翻訳可能である。

 それは重なり合う共通のイメージが存在するからだ。だから外国映画を見ても楽しめる。その土台となるのが「共通理解(基本的価値観)」であり、文化的ずれが「多様性」となる。

 ただ、文化的ずれが大きすぎると、見過ごせない場合もある。

 例えば、最近の新聞記事によると、イスラム諸国おける女性に対する虐待や殺人(「名誉の殺人」というらしい)が「風習」であるとされていた。

 ならば私のいう基本的価値観とは西欧近代主義の産物かと問われれば、私にはそれに答えるだけの知識はないが、思うに、この場合はイスラムが特異なのだろう。

 私は、基本的価値観なる観念を想定することは可能で、今後の世界はこれに集約されていく、世界のさまざまな悪癖は存続しにくくなると考える。

 先程のイスラム諸国にしても、女性の外観をヴェールで覆うことまでは自国の文化と主張できても、虐待や殺人までは正当化できまい。このヴェールについても、いずれは廃止せざるを得なくなるのではないかと思っている。当の女性がそれを嫌う兆候がみられるからだ。

 私は何でもかんでも男女同じにしろというのではない。

 例えば、相撲の土俵に女性が立つことを頑なに拒絶することは文化として認めてよいと思う。「女性一般に対する不当な抑圧」とはいえないからだ。

 また、別の例で、アメリカの弁護士事務所を舞台にしたドラマ「アリー my love」で、トイレでの会話のシーンがよく出てくるのだが、そのトイレは男女共用のようで、個人的にはこういう感覚にはついていけないところがある。

 ヴェールに話を戻すと、これはイスラム女性一般に課されている風習である。そして西欧的な感覚ではこれを抑圧だと直感的に思うであろう。これについてイスラムの人たちが、独自の合理性があると主張しても、課されている側(女性)の多くが「不当な抑圧」だと感じるようになれば、それを課し続けることは難しいのではないかということだ。

 創価の場合はこのような議論をする余地すらない。論外なのである。彼らのやっていることは集団暴行、傷害なのだから(矢野洵也氏の著書「黒い手帖」によると、学会内部には殺人を実行する組織も存在するそうである。)。だから、学会や公明党が表立って、「うちは裏ではこういうことをやっています」とは決していうまい。

 創価の人間は、日本語を操ってはいるが、言葉の表面を追っているだけであり、その実何も通じないと考えてよい。それがカルト教の本質なのである。通常人ならば、その個性、教養にかかわらず、やってはならないと「直感で」わかるような行いをためらうことなく実行する。

 洗脳の手法として「逆転の発想」みたいなものがあるものと考えられる。偉大な科学者の「パラダイム転換」じゃあるまいし、無価値な、人をいたぶる行為を、発想をただ逆にして正当化するのは、いかさま、狂気に過ぎない。

「創価-人間辞典」なるものは作れないのだ。通常の人間が持つ「悪」というイメージを創価の人間は持っていないと考えざるをえない。だから辞書は作れない。翻訳不能ということは共存不能ということである。だからフランスではセクト指定されているのだ。

(余談)

 ちょっと前のニュースだが、英語のグローバルスタンダード化を危惧するフランス政府が、自国の言語・文化を守るために、政府主導で対策に乗り出す、というのがあった。

 私は高校時代、英語(好き)、数学(まあ好き)、理科(物理-興味はあったが文系に進むと選択できなかった 化学-普通 生物-苦手(暗記がだめなので))、国語(嫌い)、社会(大嫌い(とにかく暗記がだめ))、だった。

 進路は迷った。私の傾向としては、実学(経済学部、工学部)はやりたくないというもので、ならば文学部か理学部ということになるが、結局、一番好きな語学の方向に決めた(高二になる前に決める)。

 高三の担任は当時20代半ばの数学の先生で、進路面談のときこう言った。

先生「言語学とかやりたいんやったら別やけど、英語なんか手段にすぎへんのやで。英語やって、その先どうするんや」

私 「とにかく(外国語学部か文学部に)入って、それから考えます」

先生「英語だけでも大変やのに、別のこともできるんか」

私 「………」

 今なら先生の言いたいことはよく分かる(笑)。

 それが、法学部などに入ることになった経緯は省略するが、それから20年くらい経って、やめていた英語の学習をまた始めた。

 今はネットがあるから教材のお金もかからない。私はニュース英語を使っているが、ヒアリング用の音声もついているし、辞書もネット上にあるし(ただしこれは本のほうがいいと思う)、疑問に答えてくれる英文法解説まである。

 単語もすっかり忘れてしまったが、それでも独学可能なのは、昔やった英文解釈のわずかな残像のおかげだが、それよりも国語の力のほうが大きいと思っている。やる気になったときに一人でもやれる基礎学力は国語により培われると考える。

 独学の問題は、理解できない場合にそのポイントがどこにあるのかに気づいて、正解を導かなければならない、さらにそれが正しいかどうかの確証が得られない点にある。

 親切にも、私が教材にしているニュースを翻訳しているサイトがある。ただこれが曲者で、たまに誤訳がまぎれこんでいるのだ。もちろん「誤訳という私の判断が誤り」ということもありうる。その決着を自分でつけなければならないのが独学の厳しいところだ。

 英語学習の低年齢化に私は反対である。

 ニュースの画面から流れてくる、お遊戯のような授業風景を見るにつけ、こんなことやって何になるんだと思う。片親が英語圏の人間で自然とバイリンガルになれる環境を用意できるわけもないのに。

 これは限られた時間における優先順位の問題である。ただでさえ学ぶべきことは多いし、詰め込みすぎて消耗させない配慮も必要、理系人口の確保も重要、となると、時間の浪費のように思える。子供の理系アレルギーをなくそうと、楽しい実験塾のような試みも見たが、これのほうが発想も豊かにするし、よほどすばらしい。

 私は好きでまた始めたし、英語ができると得られる情報の数が飛躍的に高まることが利点である。しかし、国語や数学ほど重要だとは思えない。

 私は子供の頃から文章を書くのが嫌いで、「夏休みの日記」「作文」とかの言葉を聞くだけで恐怖を感じる子供だった。

 日記を前に何を書いてよいのかわからず、何時間も考え込んでしまうのだ。

 しかし、そんな私も文系に進んだ以上、国語は避けて通れないわけで、高二の半ばから現代文を基礎の基礎からやり直した。それが大学に入っても今でも最も役に立っていると実感している(他人に示せる実績がないのが難点ですが)。

 専門書でも何でも、英文であっても、その内容を読み解くのは思考であり、日本語なのだ。

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