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2009年7月

8-6 社会形成の基盤  ある一日

6月25日は仕事が休みだった。この日はアパート近くの公園でブログ記事の下書きに費やしたのだが、現在の私に平穏な日があろうはずもなく、多数のキチガイに付きまとわれながら、未だに苦手な文章の構想を練った。

夕方になり、気晴らしに近くの中古CD店に行った。ここでもすぐにストーカーは寄ってくるので、特に目的がない場合は店内をさっと歩いてすぐに帰る、散歩のようなものである。

洋楽の棚に沿って移動していると、(どこの店でもそうだが)何枚かはジャケットの表面を向けて目立つように置いてある。その中の1枚に写る顔のところで自分の目が止まった。マイケルジャクソンである。しかし私は彼の音楽に興味がないので、すぐに視線を外して通り過ぎた。

一通り見終わり、同じルートを今度は逆方向に移動した。すると、またジャクソンと目が合う。たまたま私の目線のところにあっただけなのだが、なぜか私は彼の顔をしばらく凝視している。

そういえば、私は彼の音楽に興味がないといいながらも、ここ数日、" I love you more than he “ と何度か口ずさんでいる。

これはポールマッカートニーとのデュエット “ The girl is mine “ の一フレーズである(マッカートニーのパート)。数日前にFENからこの曲が流れてきた。このフレーズは、その時私が聞き取れた唯一の英語の部分というだけのことである。単に懐かしく思ったからであり、私はこの曲が特に好きというわけではない。

CDジャケット中のジャクソンの顔を見たときは、このことは忘れていた。そういえば、と思ったのは、それから約15時間後のことである。

翌朝ラジオのニュースで、マイケルジャクソン訃報の知らせが流れた。

以前にはこんなこともあった。

私はだらだらと長時間ネットサーフィンをするのが好きで、youtubeはよく見ていた(パソコンを壊されるまでは)。自分が見るのはほとんどが昔のポピュラー音楽で、アーティストがテレビに出演したときなどの生演奏を探す(CDでは得られない臨場感を求めるので)。

洋楽、邦楽は問わない。そして、ビートルズは好きなアーティストのひとつである。ビートルズはその活動期間で作風が大きく変わったバンドで、私がより好きなのは後期の作品である。ただ、彼らについては、初期のライブ映像は多く残っているが、後期のものはほとんど見られない。(1966年にライブ活動停止の宣言をしたらしい。これはこの記事を書く際に調べて知った。)
 しかし、たぶんないだろうと思っていても宝探しをしてしまうのがyoutubeの魔力で、ある日、一曲に絞って検索した。曲名は “ sexy sadie “ である。

曲は出てきた。しかし、やはり生演奏ものではなく、曲と別の映像を組み合わせたものだった。映像は、ビートルズのメンバーが滞在したインドの場所の現在の姿で、曲のテーマに合っている。私はこれをいただいた(ダウンロードした)。

そして何日か経って(10日から2週間だと思うが、確かでない)、“ sexy sadie “ のモデルであるマハリシ・マヘーシュ・ヨーギー氏死亡のニュースが流れた(2008年2月5日)。

ちなみに、私がパソコンに保存しているビートルズの曲は、この曲だけである。

私が関心を持った相手が死んでくれるというのなら、ぜひとも、嫌々でなく興味を持ちたい集団があるのだが(笑)、残念ながら私にそのような力はなく、「おまえ、今度死亡する有名人を当ててみろ」といわれても、そんなことはできない。

世の中には不可解なことはいくらでもある。興味を持てる分野もいくらでもある。私は、もし自分の置かれている状況が平和ならば、高校時代にやり損ねた学科などもまたやってみたいとよく思う(数学、物理、古典文学、歴史など)。

一方、最も関わりたくない存在というのが、他者の領域を侵害する者である。

この世でどんな絶対的権力者になろうが、存在の全貌は把握しきれない。精神・物質の全体を支配することはできないのだ。どんな人間も長くて100年そこそこの人生しかないのだ。

こういうことを、精神異常者たる集団ストーカー首領にいっても無駄なのだろう。

クズに正々堂々と戦えといっても無駄であり、ストーカーに付きまとうなといっても無駄である。通常人の想像力がないのである。それは圧倒的な欠如である。他者に対して共感できないのだ。

まともな人間の方からこの集団を解体させるアクションを起こすしかないと思う。

創価学会は個人・人格の存在を一切認めない。収奪の対象物でしかないのである。こんなやつらに関わりたくないからあっちへ行っていよう、と思っても、彼らの社会にはそういう自由はないのだ。集団ストーカーは、こちらが望まなくてもむこうの方からやって来る。

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8-5 社会形成の基盤  読売新聞5/31北岡教授のコラムを読んで

(序)

私がこれを書こうと思った理由は、

・「感情の吐露」という、一般的な使用頻度は高くないであろう言葉が使われている。(これは私が現状7で使った言葉である)

・記事の主題は「国益」

・後記に書くが、私と北岡教授は全く接点がないわけではない。

考えられることは、

a 北岡教授が私のブログを読み、参考にした。

b 創価編集者が北岡教授に記事を依頼する際に、「感情の吐露」を必ず使ってくれと頼んだ(ストーキングのために)。

c 単なる偶然。私の勘違い。

どれかは正解でしょう(笑)。東大教授ともあろう人が私なんかに、というのが常識的な考えだが、私は自分に降りかかる事象を見つめて可能性を探るしかない。

 北岡教授の記事内容は一見まともである。また、外交史の専門家として学問の蓄積がある教授に私が意見するというのもためらわれるところだ。

 しかし、それでも私なりのアプローチ・問題提起を試みようと思う。

(記事の要旨(教授の言葉をそのまま引用する))

 左右の極端な意見ではなく、中道に位置する人々の声を結集することが国益の実現に重要である。

(本論1)

○議論の土台(教授の見解)

 利益1の追求に、100のコストがかかるようなものは適切な政策ではないだろう。竹島問題について、私は日本が正しく、韓国の立場は誤りだと思うが、日韓関係をぶち壊してでも、竹島を取り戻すべきだとは考えない。

○私の意見 ‐竹島を取り戻すことは国益にかなわないか

 北岡教授は、竹島問題については日本が正しいとはっきり述べている。ならば、韓国による竹島占有は不法占拠、あるいは侵略ということになる。侵害されている法益は百分の一にたとえられるほどささいなものだろうか。

 私は道理や理念だけでこういうのではない。私は政治、さらには生きる事自体についてのプラグマティズムを認める立場である。例えば、政治家の世襲問題について、近現代の理念からはとうてい認められるものではないと考えるが、もしも現在、売国・侵略をくい止めるために必要というのならば、「この問題を一時棚上げすること」もかまわないと考える。(例えば、売国議員が、今緊急の課題である「侵略」問題から国民の目をそらすために「世襲」問題を強調する場合など。)

 いったん外国勢力に侵略されたものを元に戻す事は、国内の盗人議員を引きずりおろす事よりはるかに困難だからである。現在の米軍基地や北方領土を考えれば、私にはそう思える。

 プラグマティズムについて続けると、日韓関係は、日米関係とも日中関係・日露関係とも異なる。つまりは相手の国力のことである。領土を侵略されて黙っていなければならないほど日本が韓国に依存していることはあるのか。失う100とは何なのか、教授の文面からは明らかでない。

私が思いつくことは、「逆ギレした韓国国民が各地でデモを行い、自分の身体に火をつける者が現れ、大使館や日系商店は投石でボロボロになり、外交官は国外退去を命じられ、商人の多くが帰国を余儀なくされる、日本の観光収入が減少する」、このくらいだろうか。

 現実にある可能性の中から最良の(最もましな)選択をすべき、という考え方に教授もたぶん同意されると思うが、領土を侵略されて放置することが最良の選択とは私には思えない。領土というのは、その場所の経済的重要性(資源が眠っているなど)の有無に関わらず最重要案件だと考える。

 イスラエルとアラブにしても、ウイグルと中国にしても、その争いは熾烈を極める。後者の場合、中国政府は「国内問題」と主張するだろうが、ウイグルからみれば自分たちが侵略されてしまった状態にあるということだから、さらに悲惨である。

 韓国人あるいは朝鮮人の国民性とはどのようなものか。

 私はこれまで、自分が朝鮮人・韓国人と名乗る人物に接触したことはほとんどない。しかし、次のような事情から、ここの国民性、社会形態には大きな問題があり、日本(日本に限定しない)に取り込んだ場合、日本のよい面がすべて潰されてしまうことになるだろうと、今のところはそう考えている。

1)私に集団暴行をはたらいているのは創価学会である。(事実)

2)創価学会は、主に先進諸国において危険なカルト宗教と認定されている。(事実)

3)創価学会は朝鮮半島勢力の代弁者だといわれている。(ネット上での通説)

4)日本において、朝鮮半島起源のイカサマ宗教が多い。イカサマ宗教の主たる目的は、幹部による金銭の巻き上げあるいは強姦である。(事実)

5)在日朝鮮半島人の日本における所業について、悪評が絶えない。(事実)

6)朝鮮半島出身者は世界各地で行いの悪さを批判されている(ネット情報)

7)大韓民国における強姦率は、他国に比べて非常に高い。(事実)

8)朝鮮民主主義人民共和国は全体主義的人権抑圧国家であり、国家主導で通貨偽造・麻薬密売・誘拐を行っている。(事実)

現在対馬の買い占めも問題になっている。譲れないところはちゃんと主張しなければ付け込まれるだけである。「関係をぶち壊している」のはあちら側だろう。「関係」「協力」「議論」これらを構築する際に、一方に最低限の資質がない場合、他方は消耗するばかりである。

(本論2)

○議論の土台(教授の見解)

 極端な意見をことさらに強調するのは、民主主義の自殺行為である。近頃の一部のメディア、それにネット世論には不安がある。とくにネット世論は、ただの感情の吐露になりがちである。

○私の意見 ‐ネット世論とは何か

 北岡教授は「専門家」と「一般国民」を対置している。そうすると、専門家とは大学教授や実務家(政治家・外交官)を指すものと思われる。

 一方、それに対置されるのは、感情に流されやすい「一般国民」が形成する「ネット世論」である。匿名掲示板の意見はその代表例だろう。

 そこで疑問である。ネット上には個人が発する多数のブログが存在する。その担い手は「専門家」以外のものが大部分を占める。

 ただしその中には、鋭い視点の、多数の閲覧者を集めるサイトがいくつか存在する。そのような、「専門家」ではないが一目置かれるサイトの見解はどうなのだろう。

 ネット上は様々な意図が渦巻いており、偽情報も多数存在する。しかし、その中に宝が眠っており、それを探すのがネットの大きな魅力でもある。

 私は、専門家が専門家となるために払ってきた努力や能力を尊重するし、匿名掲示板と比較して、「一般的な信頼性」は認めるが、それは確定的ではなく、玉石混合なのは結局どちらも同じではないかと考える。

(本論3)

○議論の土台(教授の見解)

 左右の極端な意見ではなく、中道に位置する人々の声を結集することが、国益の実現で重要である。

○私の意見 ‐左右の極端な意見とは何か

 今日における左右の対立とはいかなるものか。まず、2つのモデルを提示する。

ア 政治制度の選択(純粋国内問題)

(右)自由主義・民主主義 vs (左)社会主義・共産主義

イ 国防問題についての姿勢(国際問題)

(右)排外 vs (左)協調

 北岡教授が想定しているのは不明だが、イの方だと考える。理由は、

     ネット上で議論が盛り上がるのはイ

     北岡教授の専門は外交史である。それに近いのはイ

     最近の経済破綻で、国家が経済・金融に対していかに関わっていくかが問題になっているが、それは自由主義内での対立と考える。(つまり、アはあまり今日的な問題ではないと考える)

 「極端」とは、「はなはだしく一方にかたよっていること。常識などから非常に外れていること。また、そのさま」とある。(大辞林)

 左右ではなく中道だからよしとする、というのは理解しにくいが、具体的政策についての妥当性を吟味すべきという意図ならばわかる。以下では、ある争点につき、その妥当性を検証する。

争点

日本国民が有する諸権利を外国人に付与することは妥当か

検証

 諸権利の具体例としては、入国の自由、商業活動の自由、参政権の付与、日本国籍の付与などが考えられる。ここでは「参政権の付与」について論じる。

 前提として、そもそも外国人に対しては、「人間が人間であるがゆえに認められるべき人権」(現在私が被っているような目にあわない権利)は当然認められるべきだが、それ以上のものは認められなくても、倫理的な問題は何ら生じない。

 そして、「参政権の付与」は「日本国籍の付与」に等しい。参政権を持っていればいくらでも自分の権利の拡大ができるからである。

 人類は富をめぐって殺戮・強奪を繰り返してきた。そしていまだにそれをやっているのだが、ならば、人類は歴史に何も学ばない愚か者かといえば、そうともいえまい。

 ヨーロッパ市民革命、そしてその思想的基盤たる立憲主義の目的は、私がずっと主張している「個人の領域を守ること」である。

 ただし、これが完全に機能している国はいまだ存在せず、どの国がマシかといったレベルであろう。しかも、この思想に全く同意しない国もあり、立憲主義が普遍的価値観として全世界を席巻しているとまではいえない。

 そして、日本が外国人参政権を認めるとすると、新たに意思決定に加わるであろう住民の大部分の本国籍は、「中国」「北朝鮮」「韓国」の3カ国となろう。これらの国の価値観を人権感覚について私が判定すると、

 中国→最悪 北朝鮮→最悪 韓国→先進国レベルにはほど遠い となる。

 国の政治制度(中国:一党独裁 北朝鮮:一党独裁 韓国:一応民主主義)と構成員の民族性がどう関連するのかについては、私はよくわからない。しかし、中国人のウイグルでの行状、北朝鮮国内のひどい人権弾圧の話を読むと、ここの国には「他者を尊重する自律した個人」なるものは存在しないのではないかと思える。しかも3国共に反日的である。(韓国では親日的言論をすると強烈な社会的制裁を受けるため、言論の自由すら抑圧されている)

 民主主義の弱点は、多勢に無勢というところである。そして、多数の横暴を食い止めるために立憲主義は存在するのだが、結局は構成員の質に左右されるのであり、自律した個人よりも、固まって権益を拡大しようという集団が拡大してくると、憲法はただの紙切れに等しくなるだろう。全体主義的カルトの放置によって、その兆候はすでにみられるのである。

 民主主義は古代ギリシャ都市国家が源流である。そこでは構成員として「教養ある自律した個人」を想定している。現代日本1億数千万人を「教養ある自律した個人」として教育できているとはいえまい(小泉郵政選挙以前は一度も投票権を行使しなかった私もあまり偉そうなことはいえませんが)。しかも、そこに日本の教育システム外の、反日教育を受けた者が日本国の意思決定をすることは、どう考えても日本国のコンスティテューションに反する。

 グローバル経済と呼ばれる現代であっても、依然として国家権力が最強であり、国家同士の混沌とした争いに満ちた時代である。どんな無法国家でも国際関係上の建前では等価値である。

 北朝鮮は麻薬取引・通貨偽造・誘拐犯である。しかし、これを収容する国際刑務所があるわけではない。アメリカも法制度や理論は立派だが、対外的には相当えげつないことをやっている。(ベトナムやイラクでの一般市民殺戮など。ここが原爆を落としたことは正当化しえまい。「原爆を投下しなかったなら、その何倍もの犠牲者が出た。原爆は日本とアメリカ双方の多くの人命を救った」などという言い訳を鵜呑みにする感覚が私には信じられない。「多くの人命を救った」という言葉の裏には市民に対する配慮が考えられるが、それは原爆という無差別大量殺戮兵器を使用した行為と真っ向から矛盾する。しかも2箇所に落としたのだ。さらにしかも、この兵器を実際に使用したのはこの国だけである。)

 よって、依然として国境が国民の防波堤である。

 北岡教授は「極端な意見をことさらに強調するのは、民主主義の自殺行為である」と説いている。

 私の見解は、右か左かといえば、右なのかもしれない。しかし、極端な意見だとは思わない。

 民主主義とは、自分の運命は自分で決定するということであり、その根底には「個人の尊重」がある。今の日本で外国人参政権を認めることは、個人を尊重しない価値観を有する人間に意思決定を委ねることにつながり、その先は、個人を尊重しない国になるということである。その兆候もすでにみられる。

 有能な外国人を積極的に活用しようという議論がある。ならば、「有能な」外国人を選別する「厳しい」しかも「政治的意思決定権以外の権利についての」選別制度を導入すればよいだけのことだ。参政権である必要はあるまい。

(後記)

 今から20年くらい前、私は立教大学の学生で、北岡先生は立教大学法学部教授だった。

 大学では3年時からゼミに参加することができる。私はやる気のない、成績の振るわない学生だったが、ゼミに入らないというのも不安だったので、履修要綱から何か興味のありそうな分野を探した。

 そこで候補に選んだのが北岡教授のゼミ(日米関係)だったのだが、選考に落ちた。申し込んだ時から、自分の成績では難しいかもと予想はしていた。

しかし、それが分かっていても、自分が選考という形でバッサリ切られるというのは面白くないものである。

私はこの不愉快な気持ちをどうにかしなければと、包丁を持って先生の研究室に、ではなく、何か別の形で解消したいと思った。

その時考えたのは、北岡先生の一般の講義で良い成績を取るというものだった。すばらしい答案を書いて自分の実力を示してやろう、先生は人を見る目がないんだと実感させてやろう、ということである。

私は書店で大学受験用の日本史年表を買い求め、それと先生のテキストを教材に大学図書館通いを始めた。

そして数ヶ月が経ち、年明けの試験本番は池袋の5号館大教室で行なわれた。

論述のみの2問。2問目はテキスト中のテーマそのままが題材にされていた。(たぶんこれができればC(可)はやろうというお助け問題だったのだろうと思う)

問題は1問目で、「山県有朋と伊藤博文を比較しながら論ぜよ」というものだった。

私は問題文のところで目が止まってしまい、しばらくそのままの状態だった。面食らったのだ。確かに両者共に超有名人で、近代日本政治史には欠かせない人物だが、比較しろといわれても。

覚えられない頭で試験直前まで詰め込んだのだが、両者の接点は自分の記憶からは出てこず、この場で考えるしかないようだった。

先に2問目を仕上げて考え込んでいるうちに何分かが過ぎた。

すると、ガタガタ、バタバタと大きな音が大教室を響き渡り、それは1分くらい続いた。半分以上の学生が教室を出て行ってしまったのだ。

当時、立教法学部の専門試験は確か開始20分後の放棄が認められていた。もちろん完解して退場でもよいのだが、9割9分は「降参」だろう。

騒音が収まり、すっかり人が減って風通しが良くなった大教室で、私も気を取り直し、ようやく1問目の解答の構成に取り掛かった。そして、なんとか「共通点と相違点」という形で書き上げた。すばらしい答案とはいかなかったが、出て行った学生の多さから考えて問題の難度も高かったようだし、B(良)はくれてもいいんじゃないか、もしかしたらA(優)かも、と、試験後は調子のいいことを考えていた。

結果はAだった。Aの一つでこんな自慢話をするやつもあまりいないだろうが、これが北岡先生の思い出である。

「ペーパーチェイス」という映画がある。昔テレビで見たのだが、アメリカのロースクールの話で、学生と鬼教授との緊迫した場面が見所の一つである。

しかし、学生の思いとは裏腹に、教授の採点シーンはクールなもので、機械的作業の様相である。主人公にはAをつけたが、教授には何の感慨もないようである。そもそも学生の個性に関心がないように見える。

私自身も、博士論文でもあるまいし、学部の答案程度で教授の目に留まるなどとは本心思っていなかったはずである。

私は自分の情けない現状に、自分なりのけりをつけたかっただけなのだ。

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8-1 社会形成の基盤  世襲の是非

(前提:望ましい社会とは)

 望ましい社会を想定してみる。大部分の人が賛同するであろうごく一般的なものである。

○第一段階(最低限のもの):個人の領域・安全が守られる社会

社会が形成されるとは、個々の人間が関係を構築するということである。そのためには、自分が侵害されないという相手に対する信頼が必要になる。そこで、互いに相手を侵害しないという無言の契約が結ばれることになる。

 しかし、人格は一代限りであり、個性も様々、とんでもない欠陥も一定数発生するため、法や刑罰が必要となる。

 多様な価値観、価値観の変化といっても、この点は譲れないところである。もし、絶対的な悪は存在しないというのならば、

 一人を多数でいじめたおすことが正当化しうるのか?

 子供をなぶり殺しにしてよい理由がありうるのか?

 強姦が美徳とされる時代が来るというのか?

 本当にそう思うなら、公明党のマニフェストで堂々と主張したまえ、といいたいところだ。

 このカルト教の問題は、一方(裏面)で集団ストーキング(集団暴行)などを行ないながら、他方(表面)ではポルノ写真の所持のみを処罰しようとする点にみられる。

 これらは表裏一体である。他人になんら危害を加えていない者を処罰したい者は、処罰自体がしたい者、他人をただ管理したい者、すなわち他人を侵害したい者と考えざるを得ず、そいつが異常なのである。そいつこそ処罰されねばならない者なのだ。カルトにとっての「法」とは不法の手段にすぎないのだ。法を立脚する基盤となる正義の観念が存在しないのだから。

 カルトが立法・行政にいるということはそういうことであり、最低限度の個人の安全が守られないことを意味する。

○第二段階:公正な競争社会

 理想を言えば、成功はそれをやり遂げた個人一代限りで、子供は一線からヨーイドンというもの(機会均等)だが、まだまだそれが望める社会でないことは私にもわかる。

 第一段階は私の現状に対応し、第二段階はここでのテーマ(世襲の是非)に対応する。

(世襲の是非)

1 評価の甘い国

○議論の土台

 石原都知事発言(2009.6.12)

 「結局、人物本位だと思う」

○私の考え

 ある人物が適正か否かどのように評価するか。少なくとも、親の影響がない場所で個人の能力が試されねばならない。

 石原氏は画家の四男(延啓氏)を都の事業に参加させたことを批判されたが、その際に彼が発した言葉が「余人をもって代え難い」である。この話題は世間でそこそこもりあがった。しかし、冷笑されるだけで終わってしまうところがこの国の閉塞感が揺るがないゆえんだろうか。

 石原家の私的領域内の話ならば、「うちの子は天才ざますから」と言おうが、「親バカ」で済まされるが、この事例は実質的には横領・背任に等しい。

 盗みだとわかっていてもどうにもならない国。最近のイギリスと比較してみよう。いくら裏がひどいのは同じでも、バレればただでは済まないのがあちら側、という点で、言論に対するモチベーションが違ってくるのではないかと考える。

2 先入観(先入的評価)について

○議論の土台

 自民党公認候補小泉進次郎氏は小泉元総理の次男。以下は彼の経歴

 関東学院大学卒業 → 就職せず → コロンビア大学院 → 米国シンクタンク

○私の考え

 この経歴を見て、アメリカでのものは完全に親の力で、カムフラージュにもなっていないと思ったが、ネット上の議論を見ても同様だった。

 国会議員の家系ならば、有名私大の附属にもぐりこませて、コネで就職させる事は簡単だと思われるのに、なぜそうしなかったのか。親がルーズなのか、若い頃に離婚した事情によるのか、あるいは、どんなお膳立ても無力なダメ息子だったのか、私にはわからない。

 もし小泉元首相がよき(実績を上げた)政治家で、子息に地盤を継がせるなどと言わなければ、上記の事情はすべていい方に解釈されただろう。「おおらかな」「小泉さんらしい」という風に。

 しかしそういうことではないので、進次郎氏の人物評価に手心を加える必要はあるまい。

(ただ、私としては、石原氏のように、小学校から慶応に入れてしまって、一流企業と完璧なレールを敷いてしまったほうが姑息で厄介だとは思うが。)

 関東学院大学というのは、世間的評価はたぶん低いのでしょう(私は私学のレッテルを上から真ん中くらいまで言えるが、その中にないので)

 しかし、そういう「先入観」は個人によってはもちろん覆されうるものである。

 田中角栄は小学校卒で、政治家としての評価は分かれるところだろうが、「小学校しか出ていないのにすごい」と言われることはあっても、「無能」という評価は聞いたことがない。

 ただ、「覆されうる」といったように、レッテルを覆さなければならない分ハンディを負うのだ。(東大卒がこの逆で、有能の推定が働き、こいつは実はたいしたことがないと言いたい側が立証責任を負うわけである。)

 建築家の安藤忠雄氏のように圧倒的な実績があれば、建築界においても「高校卒」は全く問題にならない。

 2人の例を出したが、このくらいギャップが大きいと、逆に低い学歴が勲章のように目を引くことになる。(田中角栄は「今太閤」といわれ、豊臣秀吉にたとえられた)

 だから、小泉進次郎氏は、劣勢を覆すだけの何かをするしかあるまい。それは選挙に勝って「民主主義の洗礼を受けた」などと開き直ることではない。

 まず自分ひとりの力で生活をし、なおかつ自分が国益を担える人物であることを証明しなければならない。これはたやすいことではあるまい。

 彼が議員になりたいというのは、社会の風に身一つでさらされたくないからであり、生活保護を年2000万円くれというようなものだと、私は「先入的評価」をする。

 何度も言うが、それが当たっていない事を彼が「別の場所で」証明するしかないのだ。

(後記)

 石田徹也氏は画家である。若くして逝った(2005年 31歳)。彼の絵のほとんど全ては自画像をモチーフにしたもので、社会風刺、社会批判を思わせる強烈な画風である。

 彼の作品の一つに「面接」がある。私が解釈するならば、「日本の会社が大学生のサラリーマン適合性を顕微鏡で見るように緻密に精査する。面接前からその事が分かっている大学生の目は死んでいる」というものだ。明確なメッセージが見て取れるので、誰が解釈しても同じだろうと思う。

 そして私といえば、留年を繰り返し、就職はしなかった。(片手くらい受けたが、本気で就活をしたとは評価されないだろう)

 そういう私だから、自分の経歴に関して、いちいち「この間は何をしていたんだ」とか詮索されることは好まない。

「そんなの私の…」と言えるはずもないから、言い訳を考えるのが一苦労だし、そういうことを思考する自体が嫌である。(キツネとタヌキのバカし合いだと始めからわかっているとしても、それをこなすのが社会人だと言われれば、返す言葉はないが)

 そういう私でも、小泉進次郎氏については臆せずものが言える。彼は国民代表になろうとしているのだから、万人による厳しい審査を受けるのは当然である。

 そして、この日本社会が、一方では経歴の一分の隙もなく、自分が会社に役立つ事を説明するよう要求しながら、他方では能力の審査もなくパスさせる、この矛盾について考えずにはいられない。

 社会の大部分のコンセンサスが得られない社会、それをごまかそうとする(マスコミなどによる)策略のみが横行する社会、その行き着く先はモチベーションの低下、文化の停滞、犯罪の横行、そして、内戦だろうか。

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8-3 社会形成の基盤  価値観の基底

 共通理解は「価値観の基底」と言いかえてもよい。社会形成における価値観の基底とは、「個人(他人)の領域を侵さない」という無言の約束である。

 私はこの原稿を書くにあたって次のようなメモ書きをした。

「創価指導者が持っているくらいの金が自分にあるならば、たいていのやりたいことはできる。それらをやりつくしてもほとんどの金は余ってしまうだろう。ならばそんなものを残してもしょうがないので、世のために使うとか、そういう発想は生まれないものか。人の世話は嫌いというのなら、少なくとも自分は好きなように生きられるのだから十分だろう。」

 後日、職場のストーカーを通じて返答してきた。尋ねたわけでもないのに私にものを言いたがるのは相変わらずである。

「価値観の違いだろ」

 読み取れるのはこういうことだ。すなわち、金では満たされない心の渇きがある。ストーキング、虐待、力による支配そのものこそ、こいつがやりたいこと、自己実現の手段だということである。

 文学でもない、科学でもない、冒険でもない、スポーツでも音楽でもない。虐待、支配こそ、こいつが一番好きなことなのである。

 私が見る風景はカルト信者だらけである。外では一目でキチガイとわかる者がほとんどだ。職場の信者たちは顔つきは一見普通だが、やっていることは同じである。

 ここの指導者は大金持ちで、たいていのやりたいことはできるにもかかわらず、こんなロボット人間をはべらせたいと考えているのである。そしてそうでない人間も一人残らずアリにしたいと考えているのだ。前のレポートでは「無能で臆病者のクズ」と評価したが、「精神異常者」と考えるほうがよほどすっきり理解できる。

 水泳の北島選手復帰会見のニュースを聞いた。この人は水泳選手としてこれ以上ない結果を出した人である。心置きなく次の道へ進むことができるようにみえる。しかし、WBC(野球の世界大会)を見て気が変わったらしい。

 誰しも他者に認められる自分でありたい、スポットライトを浴びる存在でありたいと思うものである。これほどの選手でもやめてしまえばさみしいということか。

 こういう世間の注目を浴びる人でなくても、それぞれの世界で輝いたり輝かなかったりすることに一喜一憂するのが人生だと思う。

 専門家(精神科医)でない私が、創価指導者の「精神異常性」についてあえて答えを書くならば、次のようになる。

「創価指導者は、他者を魅了できない自分の本性(「日常」と言いかえてもよい)に納得できず、その代償として、他者を強制的に動かすことのみに生きがいを見出した。」

 彼は、世界の最後の一人まで奴隷にしたとしても決して満足しないだろう。思いのままに動く目の死んだやつらをはべらせることは、自らが輝くことの代わりには決してならないからだ。

 多様の前提となるのは、翻訳可能性である。相手がフランス人でもアメリカ人でも中国人でも「まともな」人間とならば共存できる。和英辞典で「卑怯」「悪」と引けば、それに対応する英語が出てくる。そこには多少の文化的ずれがあるとしても翻訳可能である。

 それは重なり合う共通のイメージが存在するからだ。だから外国映画を見ても楽しめる。その土台となるのが「共通理解(基本的価値観)」であり、文化的ずれが「多様性」となる。

 ただ、文化的ずれが大きすぎると、見過ごせない場合もある。

 例えば、最近の新聞記事によると、イスラム諸国おける女性に対する虐待や殺人(「名誉の殺人」というらしい)が「風習」であるとされていた。

 ならば私のいう基本的価値観とは西欧近代主義の産物かと問われれば、私にはそれに答えるだけの知識はないが、思うに、この場合はイスラムが特異なのだろう。

 私は、基本的価値観なる観念を想定することは可能で、今後の世界はこれに集約されていく、世界のさまざまな悪癖は存続しにくくなると考える。

 先程のイスラム諸国にしても、女性の外観をヴェールで覆うことまでは自国の文化と主張できても、虐待や殺人までは正当化できまい。このヴェールについても、いずれは廃止せざるを得なくなるのではないかと思っている。当の女性がそれを嫌う兆候がみられるからだ。

 私は何でもかんでも男女同じにしろというのではない。

 例えば、相撲の土俵に女性が立つことを頑なに拒絶することは文化として認めてよいと思う。「女性一般に対する不当な抑圧」とはいえないからだ。

 また、別の例で、アメリカの弁護士事務所を舞台にしたドラマ「アリー my love」で、トイレでの会話のシーンがよく出てくるのだが、そのトイレは男女共用のようで、個人的にはこういう感覚にはついていけないところがある。

 ヴェールに話を戻すと、これはイスラム女性一般に課されている風習である。そして西欧的な感覚ではこれを抑圧だと直感的に思うであろう。これについてイスラムの人たちが、独自の合理性があると主張しても、課されている側(女性)の多くが「不当な抑圧」だと感じるようになれば、それを課し続けることは難しいのではないかということだ。

 創価の場合はこのような議論をする余地すらない。論外なのである。彼らのやっていることは集団暴行、傷害なのだから(矢野洵也氏の著書「黒い手帖」によると、学会内部には殺人を実行する組織も存在するそうである。)。だから、学会や公明党が表立って、「うちは裏ではこういうことをやっています」とは決していうまい。

 創価の人間は、日本語を操ってはいるが、言葉の表面を追っているだけであり、その実何も通じないと考えてよい。それがカルト教の本質なのである。通常人ならば、その個性、教養にかかわらず、やってはならないと「直感で」わかるような行いをためらうことなく実行する。

 洗脳の手法として「逆転の発想」みたいなものがあるものと考えられる。偉大な科学者の「パラダイム転換」じゃあるまいし、無価値な、人をいたぶる行為を、発想をただ逆にして正当化するのは、いかさま、狂気に過ぎない。

「創価-人間辞典」なるものは作れないのだ。通常の人間が持つ「悪」というイメージを創価の人間は持っていないと考えざるをえない。だから辞書は作れない。翻訳不能ということは共存不能ということである。だからフランスではセクト指定されているのだ。

(余談)

 ちょっと前のニュースだが、英語のグローバルスタンダード化を危惧するフランス政府が、自国の言語・文化を守るために、政府主導で対策に乗り出す、というのがあった。

 私は高校時代、英語(好き)、数学(まあ好き)、理科(物理-興味はあったが文系に進むと選択できなかった 化学-普通 生物-苦手(暗記がだめなので))、国語(嫌い)、社会(大嫌い(とにかく暗記がだめ))、だった。

 進路は迷った。私の傾向としては、実学(経済学部、工学部)はやりたくないというもので、ならば文学部か理学部ということになるが、結局、一番好きな語学の方向に決めた(高二になる前に決める)。

 高三の担任は当時20代半ばの数学の先生で、進路面談のときこう言った。

先生「言語学とかやりたいんやったら別やけど、英語なんか手段にすぎへんのやで。英語やって、その先どうするんや」

私 「とにかく(外国語学部か文学部に)入って、それから考えます」

先生「英語だけでも大変やのに、別のこともできるんか」

私 「………」

 今なら先生の言いたいことはよく分かる(笑)。

 それが、法学部などに入ることになった経緯は省略するが、それから20年くらい経って、やめていた英語の学習をまた始めた。

 今はネットがあるから教材のお金もかからない。私はニュース英語を使っているが、ヒアリング用の音声もついているし、辞書もネット上にあるし(ただしこれは本のほうがいいと思う)、疑問に答えてくれる英文法解説まである。

 単語もすっかり忘れてしまったが、それでも独学可能なのは、昔やった英文解釈のわずかな残像のおかげだが、それよりも国語の力のほうが大きいと思っている。やる気になったときに一人でもやれる基礎学力は国語により培われると考える。

 独学の問題は、理解できない場合にそのポイントがどこにあるのかに気づいて、正解を導かなければならない、さらにそれが正しいかどうかの確証が得られない点にある。

 親切にも、私が教材にしているニュースを翻訳しているサイトがある。ただこれが曲者で、たまに誤訳がまぎれこんでいるのだ。もちろん「誤訳という私の判断が誤り」ということもありうる。その決着を自分でつけなければならないのが独学の厳しいところだ。

 英語学習の低年齢化に私は反対である。

 ニュースの画面から流れてくる、お遊戯のような授業風景を見るにつけ、こんなことやって何になるんだと思う。片親が英語圏の人間で自然とバイリンガルになれる環境を用意できるわけもないのに。

 これは限られた時間における優先順位の問題である。ただでさえ学ぶべきことは多いし、詰め込みすぎて消耗させない配慮も必要、理系人口の確保も重要、となると、時間の浪費のように思える。子供の理系アレルギーをなくそうと、楽しい実験塾のような試みも見たが、これのほうが発想も豊かにするし、よほどすばらしい。

 私は好きでまた始めたし、英語ができると得られる情報の数が飛躍的に高まることが利点である。しかし、国語や数学ほど重要だとは思えない。

 私は子供の頃から文章を書くのが嫌いで、「夏休みの日記」「作文」とかの言葉を聞くだけで恐怖を感じる子供だった。

 日記を前に何を書いてよいのかわからず、何時間も考え込んでしまうのだ。

 しかし、そんな私も文系に進んだ以上、国語は避けて通れないわけで、高二の半ばから現代文を基礎の基礎からやり直した。それが大学に入っても今でも最も役に立っていると実感している(他人に示せる実績がないのが難点ですが)。

 専門書でも何でも、英文であっても、その内容を読み解くのは思考であり、日本語なのだ。

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8-2 社会形成の基盤  論外のやつら

 私はたまに考えることがある。この世で最も厳しい状況に置かれている人とはどういう人なのだろうと。

 理不尽な事というのはこの世にあたりまえのように存在する。自分も相当ひどい目に遭っている自覚はあるが、私よりもつらい現実を生きている人もたくさんいるだろう。

 想像するに、抗がん剤治療中の患者とか、戦場の最前線にいる兵士・そこの住民、飲酒運転に巻き込まれて同乗していた数人の子供を一挙に失った親など。

 さすがにこういう人たちには負けるが、その次くらいには、と思う。

 私が受けているのは身体的・精神的拷問とあらゆる自由の剥奪だが、こんな事は先進国では普通考えられないことである。途上国においても、私のような特異な環境に置かれている人間はそうはいないだろう。

 私が言いたいのは、カルト教団創価学会は論外の存在だということである。

 論外とは、社会の構成員としての「最低限の」資質を備えていないということである。鉄格子の中でのみ生存が許される存在だということだ。そして、最も問題なのは、そういうまともでない人間が組織化していることである。言い方をかえれば、メンヘルを組織に取り込んでテロリストに仕立て上げているのである。

 日本より多くの移民を受け入れているフランスでさえ、創価学会は認められないとしているのだ。

 多様性、多様な社会、多様な文化といっても、社会を形成するための「最低限の」共通理解は必要である。これはまともな人間なら誰でも分かるレベルのことである。宅間守君も仲良くいっしょに暮らしましょうね、とはいかないということである。

 日本はこういう凶悪犯、犯罪集団が捕まらない社会になってきている。

 法学の教科書では、夜警国家(治安維持)から福祉国家(弱者保護政策)への歴史的流れが当然のように記述されているが、今の日本では治安維持すら満足に機能していない。

 これはある意味当然なのである。他者に危害を加えることをよしとするカルト教団が公党として税金を任され、公務員、法曹、医師への門戸も開かれているのだから。

「宗教と犯罪」(小田晋著)は2002年に出版された本だが、非常に示唆的である。

 これからの世界で最も脅威になるのは宗教テロだと小田氏は主張している。

 本書の中で小田氏は、オウム真理教に破壊活動防止法が適用されないことを強く批判し、また、カルト教の「応援団」となった大新聞や知識人の詭弁についても論じている。

 この本はオウム真理教を主たる研究対象としているが、私が読む限り、創価学会も氏の関心領域にあると考えられる。

 小田先生の文章を2箇所から引用して、ここは区切りたい。

「人間が、日常の平凡で正常な対人関係のなかで、おだやかで「まとも」な生き方をすることに耐えられなくなったとき、その日常的な枠や仕組みを破壊しようとすれば、それは犯罪である。さらに日常の世界を超えたもうひとつの自分だけの世界をつくって、その中にたてこもるとすれば、それは狂気である。さらに日常の世界を超えたもうひとつの次元に眼をむければ、そこに神秘主義と信仰にいたる道がひらかれているといっていいだろう。この犯罪・狂気・信仰の三者は、日常的・世俗的な世間への適応のあり方に対するずれ方の一形態として、たがいに相補い、場合によっては手を組んで働く。」

「多少の観察眼を具えているなら、誰でも理解できると思われるのに、現実には法は適用されず、日本国はこの史上空前の凶悪で、およそ是認の余地がないと思われる宗教テロリスト集団の存続を許してしまうことになった。そして、この教団と、教祖を賛美したかつての教団御用学者たちは再び社会の表面に躍り出て活動を始めた。それは決して、この団体のみの問題ではないのである。むしろ、この宗派に対してさえ、破壊活動防止法による解散指定を免れさせようと努力し、そしてそれに成功した人たちは、そのことによって、今後、いかなるテロリスト集団に対しても日本国は、これを「団体としては」解散させることができないという「前例」と「実績」を作りたかったのである。そして、それのみではなくて、その実績の上に立って、公安調査庁そのものを「リストラ官庁」であるとして、その消滅や削減を要求し、それに、ジャーナリズムの一部が同調し、しかも、それに部分的には成功しつつあるように見えるのである。」

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8-1 社会形成の基盤  はじめに・目次

(はじめに)

 現状5-評価(3)に代えて、現状8-社会形成の基盤を出すことにしました。

 私の文章中のいくつかの法学用語が鼻につくかもしれませんがご容赦いただきたいと存じます。

 確か田中康夫さんの昔のコラムだったと思いますが、弁護士と話をすると、何事も法律学の枠で捉える傾向があり、それが嫌だという趣旨の内容だったと記憶しています。

 私は法曹資格を持っていませんが、あの受験勉強を経験すると、どうしても世の中の出来事を「事例」と捉え、法学の方程式に則って解明しようとする癖がついてしまうことは避けられません。

 広く他の学問もやればちょっとは違うのでしょうが、まだまだ生きていくのが精一杯なものですから、ご容赦ください。

(目次)

8-1 はじめに・目次

8-2 論外のやつら

8-3 価値観の基底

8-4 世襲の是非

8-5 読売新聞5/31 北岡教授のコラムを読んで

8-6 ある一日

8- 追加事例

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