5-8 無間地獄とは何か 評価(1)
「狙った相手を集団でいたぶりぬく」
彼らはこれを躊躇なくやる。路上や車両の者は、冷徹にというよりは、極悪ぶりを強調しながら行う。
ある者は薄笑いを浮かべながら、ある者は高笑いをしながら。
ある者は私が頼んでもいないのに言葉を聞かせようとする。その内容は、彼らが四六時中仕掛けるわなにより、私が少しずつ損をしていく過程で、あたかも私の気持ちを述べているかのような形で私にぶつける。その言葉は、必ずマイナス思考の言葉である。実際にはこの現実を乗り切ろうとプラス思考に考えていたとしても、それを無理やり欝にもっていくための心理的手法である。
それ以外の言葉は、自分たちがいかに極悪か、倫理観がないかを強調したものである。これも同様、私に絶望感を与え、自らつぶれるように仕向ける心理的手法である。
さらに電磁波兵器となると、完全にテロリズムの範疇だろう。
末端の奴らは指導者の意のままに動くコマに過ぎない。いわば兵隊なのだ。創価学会は、一部の構成員に対して、おそらく軍事訓練のような形で、ストーキングの手法を叩き込んでいるのだろう。ターゲットがどうしても注視してしまうような不自然な体のしぐさ、蛇行しながらターゲットにニアミスする乱暴な歩き方・自転車や車の乗り方、耳につくしゃべり方、奇声の発し方など、共通のものがある。
彼らは、無関係な他人に危害を加えるための道具と化した愚かな存在だが、その背後にはもっと悪いやつがいる。
私がこれまで書いてきた様々な手法を考え出した者、実行するよう指揮している者である。創価の指導者(指導層)というのは、人格的に最悪の部類に属するといってよい。
ではなぜ創価学会はこのような悪行を続けるのか。
以下ではこれについて考えてみたい。
●なぜ悪行をやるのか
私が創価のストーキング行為について手書きの草稿をまとめていると、まもなくわかりやすい形で反応が返ってくる。大まかに区分すると次のようになる。
a より巧妙にわかりにくい手法に変える
b 私が書いたことをこれでもかとばかりに強調して行う
bの例
・ 私がメモに「物流業者が台車でそばに寄ってきて騒音を立てる」と書けば、後日、より大きな台車で、または多くの台車で嫌がらせを行うもの
・ 電車内で携帯電話を使ってしゃべる創価ストーカーに対し、私が注意すると、携帯電話でしゃべりながら寄ってくるストーカーをいっそう多く投入してくるもの
abどちらも創価の性質だが、ここではbを手がかりに考えてみたい。
子供ABの二人が口げんかをしている。Aは理屈で追い込まれたとしよう。Aはどういう反応を示すか。以下のものを想定してみた。
(イ) 別の理屈を探す
(ロ) 黙る
(ハ) これまでの自分の主張をそのまま繰り返す
(ニ) 机をひっくり返す
負けを認めたくないという意思のみ先行する者は(ハ)(二)を選択するしかないだろう。これらは知性がゼロでもできる。ただし、効果的ではある。
Bは自分の能力や努力が全くむくわれないため、次第に消耗し、ついにはさじを投げる。
そうすると、Aは議論の内容で劣勢に立つにもかかわらず、相手を黙らせたという既成事実は作れる。それがAの狙いだ。(狙いというより、単なる自己防衛反応といったほうがよいかもしれない。)
創価の手法は(ニ)である。これはいわば場外乱闘である。自分たちに一分の理もないことが自分にも分かっている、だから大声でわめいて場そのものを壊すしかないのだ。
(だいたい、集団で特定個人をつけまわし、音を立てて消耗させようという発想自体が最悪なのだ。創価ストーカーの言葉にこういうのもあった。「消耗する?」)
個人の領域を尊重する価値観、基本的人権、あるいは自然権というものは、それがたとえ論理的に説明し得ないものであっても、現時点における普遍的な価値観である。ある人物に見も心も捧げるという考えとは対極にあるこの価値観に、大部分の人が賛同するのは当然であろう。「他人のものは俺のもの、他人そのものも俺のもの」そんな考え方は、現代世界のどこにおいても通用するはずがないのだ。
しかし、まともに議論したならばそれを認めざるを得なくなる。そうすると、教団幹部は全てを失う。不当に得たものを返さなければならなくなる。だからこそ悪行を重ねるしかないのだ。
(後記1)
最近のストーカーの言葉に、「やってみなきゃわかんないもんね」(私の解釈「ブログにいろいろ書いても無駄だ」)というのがあった。彼らはいつも強気を装う。
しかし、実際やることといえば、メモの段階から私が書くものを盗み見したり、私のパソコンを動かなくするとか、経済的に疲弊させるとか、そういう下衆の最後の手段のようなことばかりである。
(後記2)
私が上記のテーマを考える際に、いつも頭に浮かぶ姿がある。それは小泉元首相の姿である。
実家にいた頃、私は、BGM代わりのNHKラジオから聞こえてくる国会中継にしばしば引き込まれた。
なぜ引き込まれたのか。それは、当時の小泉首相vs野党の論戦がたいそう熱の入ったものだったこと、そして首相の幼児的なまでのはぐらかしがその論戦をいっそう白熱させていた点にある。
小泉氏は大きな声で堂々と自論を繰り返す。そして多数のチルドレンが盛り立てる。野党の質問者は疲れ果て、さじを投げる様子が何度も耳に入ってきた。私はこれを聞きながらこう思っていた。
「厄介な相手だよな」
「言葉や論理に対する誠実さを捨ててしまったら話しにならないだろ」
「自分が質問者ならば、どうやって効果的な一撃を加えることができるだろうか」
このような相手に対してどういう対処法があるか。
先程の子供の例ならば、周囲で観察している人間が評価することになろう。まっとうな社会ならば、子供Aは人望を失い、リーダー的な地位に付くことができなくなるだろう。
国会の場合ならば、それを見ている国民が、と言いたいところだが、今から考えれば、だからこそというか、元首相の本当の姿を国民に気付かせまいとする権力側の意図が働いたのだろう。
つまり、共犯としてのマスコミの責任のことである。これについては既に多くの人が分析している。
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