5-9 無間地獄とは何か 評価(2)
●なぜこうもクズなのか(なぜ無用に他人を侵害したがる人格が存在するのか)
1
「アリのようにいるだろ」
街に出かけると、そこで私が見かける人間のほとんどは創価ストーカーとなる。別の街に移動してもそうである。行き帰りも移動中もそうである。行き先をあらかじめ決めずに、歩きながら決めてもそうである。
いったい私に対して何人掛けているのか、見当もつかない。これも妄想編として出そうかとも思ったが、これが私に見える現実なのだ。
冒頭のセリフは、最近秋葉原で創価ストーカーの一人が私に言った(と自分では思っている)ものである。確かにいかれた顔つきのロボット人間がアリのようにうようよいる。私は次のように読み取った。
1)彼ら信者は、自分がアリ扱いであることに何の疑問も持たない存在である。
2)創価指導者は、全日本人(願わくば全地球人)を自分のために動くアリに作り変えたいという願望を持つ者である。
最近のニュースで、女性を殺害後バラバラにしてトイレに流すという事件があった。被告の星島は、被害者を「性奴隷にしたかった」と法廷で述べたそうだ。殺害は一人だが、検察は死刑を求刑した。(一審判決は無期懲役)
私は、この星島と創価指導者の人格について、何が違うのかと思う。何も違わないだろう、と。むしろ後者の方が膨大な人間を不幸にする点、はるかに罪深いと思うのだが。
創価のやり口を検証してみると、「卑怯」「醜い」という言葉では言い尽くせない人格のいやしさを感じる。まともな人間ができることではない。
そこで表題である。「なぜこうもクズなのか」
言い換えれば、「なぜこうも無用に他人を侵害したがる人格が存在するのか」ということである。
「生まれながらそういう人格なのだからどうしようもない。人格は才能と同じで生まれ持ったものだ。」
「脳の欠陥である」
こういう考えに私は同意する。しかしこれでは話が終わってしまうので、あえてこういう人格を「正常な人格中の程度の差」であると仮定し、これを前提に話を進めようと思う。
2
仮の話を。私に人生の選択肢があるとする。それは、私がカルト教の指導者あるいはキムジョンイル的な地位(絶対者)に立つことができるというものとする。私はどうするか。
(私の答え)
そういう人生は選択しない
(理由)
1)自分が絶対者となって、他人が思うように動いたとしても面白くもなんともない
2)自分が多くの他人を苦しめるクズであることに耐えられない
3)私は自分の死後、自分の行いが裁かれるかもしれないと感じている
これを土台に考えてみる。
3
理由1を土台とする考察(なぜ他人を動かすことにこだわるのか)
私は、勉強・スポーツなどにおいて、他人と競争することに楽しさを見出すことができる。別に競争中毒ではない。自分の能力を上げるためには、日々の地味で単調な努力が必要だが、競争を餌にモチベーションを上げようというわけだ。
ずいぶん傲慢な言い方に聞こえたかもしれないが、そうはとってもらいたくない。私は特別能力が高いわけでもなく、エネルギッシュでもない。自分の世界でコツコツやるのが好きだというだけだ。
結局、自分自身に最も関心があるということだろう。これはこれである種の病理と分析される方もいるだろうが、別に他人を侵害するわけではないので、私に絡んでくる奴の病理とは全く異なる。
また私は、常人離れした高い能力・人格を持つ他人に興味がある。過去の天才の業績や生き方、風変わりな性癖などを読むのが楽しい。
しかし、自分が絶対者となって他人を押さえつけてしまったならば、そういう傑出した人達は生まれにくくなるだろう。
で、なぜクズは絶対者として他人を侵害したがるのか。
(私なりの答え)
クズはあまりにも無能である。またはどうしようもない無能だと思い込んでいる。あるいは臆病者である。だから一人で競争に飛び込むことができない。組織のバックがなければ生きていけない。
一方、クズは自己愛が人一倍強い。
この落差が大きくなればなるほど、クズの自己実現は他人を支配したいという願望へと近づく。
競争などには関心を持たず、自分が没頭できることに身を投じる生き方もあろう。しかしクズは感受性が鈍く(他人を苦しめることを平気でできる奴だから)、この世の様々な興味深い現象に関心を持たない。よって、やはり権力のみを志向しがちとなる。
私は自分の答えを書いてみて、いまいちだなあと思った。というのも、自分はこの種の人格に共感するところが全くないからである。
しかし、この部分のメモを書き終えた後、思わぬ反応があった。まずその事情を書く。
現在私のパソコンは使えない状態にある。犯人は私に絡むストーカー組織ということだろう。そして、この原稿を書くため、またネットを見るために、北区中央図書館に通っている。「私なりの答え」を手書きのメモに書き終えた日の帰宅途中でのこと。
夜8時過ぎ、東十条~大宮間は朝のラッシュを思わせる混雑振りだった。私はこの図書館に通い始めてから一週間くらい経つが、その間は座れるかどうかというくらいで、全然混んでいなかった。
桶川に引っ越したときと同じパターンである。創価ストーカー達が数で圧力をかけてきたわけだ。(結局この日以来ずっと混雑している)
座っている男子学生の3~4人のグループが何やら大声でしゃべっている。ドラゴンボールの話らしい。私はこのアニメの内容を全く知らない。キャラクターの話をしているらしく、どいつがどいつより何百倍も強いとか言っている。怒鳴るように熱中している。彼らは降車の直前に次の言葉を何度もまくしたてた。
「素人が」
「全然わかってない」
大宮駅で高崎線に乗り換える。そこにいたおばさんの2~3人も大声でしゃべっている。彼女らも降車の際に怒鳴りだした。
「調子に乗りやがって」
「調子こいてんじゃねえよ」
どうも、私に対するストーキングを指揮している創価指導者がとても怒っているらしい、と私は感じた。その原因はというと、私のメモ中の次の言葉しかあるまい。
「無能で臆病者のクズ」
せっかくの反応なので、いまいちな「私なりの答え」を補強しようと思う。
臆病者なのか、何百倍も強いのか。
まず、過去にストーカーが私に投げかけた言葉を挙げる。
「おじゃまむしなんだよ」
「おまえはバウンドしすぎた」
「田舎者は帰れ」
「実家に帰る」
私に東京(圏)から去れということなのだろうか。
他にも、「40歳過ぎてから外国に渡ってなんとか生活している人の話」とかを、おばさんストーカー達がしていた記憶がある。
しかし、私はこちらで普通の生活をしているだけであり、また帰ったからといって安全が保障されるわけでもない。無法者集団のほのめかしにハイハイと従うわけにはいかない。
だいたい、私のようなそこらの個人に対して、巨大組織を使った暴力的追い落としを行う、テクノロジー兵器を使う、メモを盗み見る。そこまで気になるのか、何を恐れているのか。そのメンタリティーは「誇大妄想、臆病」というしかないだろう。
何百倍も強いのか。大きな組織の上に乗っかっていることは知っている。しかし、組織の指導者裸の個人が有能かどうか、強いのか臆病なのかは知らない。ただ、こんなことをするような奴は、と思いついただけである。
そして、この反応は、「私なりの答え」がそれほど的外れではないことを示すのではないかと考える。
4
理由2を土台とする考察(クズには自尊心はないのか)
先程の反応について。もしこれが「無能で臆病者のクズ」という言葉に傷ついたものであるならば、ストーキング指導者にもプライドらしきものは残っているとも思える。
しかし、彼らについて、このような反応は非常にまれである。彼らが私に投げかける言葉はほぼ100パーセント、不適なもの、自分たちがいかなる批判にも動じないことを強調するものである。強気に振舞う、強気を装うのである。これについて解明を試みる。
彼らは長年にわたって不当な利益を享受してきた。理不尽を通してきたわけである。それは強奪に等しいと前に書いた。
しかし、理不尽を通すことも簡単ではない。それを実現するために最も必要なことは何か。
「何があっても、何と言われようとも引かないこと。非を認めないこと」
これを彼らは選択したのだと私は考える。評価(1)でタチの悪い子供の話をしたが、こういうやり方である。これにより既成事実を維持するのである。
この手法を別の言葉で言い換えるならば「鏡のようにはね返す(拒絶する)手法」といえる。それは知性・理性を放棄し、検証を放棄するものといってよい。
例えば、彼らはこんなことを言った。
「こんなことしかできないんだよ」
(私の解釈「自分たちはこんな嫌がらせしかできない愚かな存在なんだよ」)
私は彼らと議論しているわけではない。彼らが一方的に私に聞かせようとしているだけである。それはつまり、私に対する効果を狙っただけの言葉だということだ。このようなことを真に認識・自覚することは、自尊心をかなり損なうものであり、このような言い方にはならない。そもそも議論をしていない私にわざわざ聞かせようとするはずはない。この言い方には含みがあるのだ。「こんなことしかできないんだよ。それがどうした」ということだ。クズである自分を無条件肯定するものだ。
たとえ語っているような形を作ったとしても、実は何も語ってはいないのだ。語りではなく、反応なのである。彼らは理不尽を通すことをはじめから決めており、自己検証を拒絶しているのだから。
これを実行し続けるためには、迷いがあってはならない。「プライドらしきものは残っている」と書いたが、本当はそんなものは残してはならない。
迷いをなくすためには、自己の真の姿を見ない、見ることを拒絶する、疑問を持たないことが必須となる。考えずに採るべき反応のみあらかじめ決めておくのだ。
彼らの自尊心の正体は、自尊心から「厳しい自己検証」の過程をあえて除き、「ただ引かないこと、意地でも通すこと」にすり替えたものといえる。
これは、「相手を妨害したこと、相手の感情を乱したこと」にかろうじて自己の勝利をみる、一種の自己催眠といえよう。
人間が成長するには、自己の肯定と否定を繰り返す揺れ・葛藤が必要と考える。しかし彼らにはそれが全くない。クズである自分を無条件に肯定しようとする。プライドらしきものがあるとしても、その実体は、他者の尊重を伴わない幼児的な自己中心性であり、自己検証をも放棄しているため、救いようのない暴力性となって現れるのだろう。
クズとは「決して自分に向き合おうとしない奴」という結論になった。
だから批判を恐れる。現に批判をしている者のみならず、私のような、いつか批判をするかもしれない性格を有する者まで探り、根から潰そうというパラノイアに陥る。この度量のなさは何だろうか。
批判に対して返す言葉がないだけではない。
本当は言われたくないのだ。あまりに醜悪な自分を直視したくないのだ。
5
理由3を土台とする考察
人間は死後、自分の生前の行いをあの世で裁かれる
こういう考え方は宗教的なのだろうか。私は特に信仰する宗教・宗派を持たないのだが、こういう考えを捨てきれない。
「捨てきれない」といったのは、これが論理的に説明できないからである。これは、自分は死後どうなるのかという誰にも答えられない問いに対して、自分を納得させるひとつの手段である。
しかし私は、物質が何の意味もなく存在するとはどうしても思えないのだ。理由もなく存在するという考え方のほうが不自然に思えるのである。
だから、宇宙が消滅してただの無になってしまうとはどうしても思えない。その「無」とは、有に対する概念である無そのものが意味をなさない世界、いや、世界がそもそもないのだから、表現不能な意味での無、とでもいえようか。これは確かに恐ろしい。
でも私は、もしかしたら根が楽観的なのか、無教養だからか、俗っぽい方(魂とか)にシンパシーを感じてしまう。
もちろん、仮に死後私が何らかの形で存在しうるとしても、それがある倫理的価値観に基づく裁判に結びつくとは限らないのだが、私はある種の普遍的価値観が宇宙をも越えて存在すると信じているのだろう。
これは単なる慰め、都合のよい妄想だといわれればそれまでである。
しかし、ないことも立証できないのだ。死後のことは誰にもわかるまい。
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