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2009年2月

5-9 無間地獄とは何か  評価(2)

●なぜこうもクズなのか(なぜ無用に他人を侵害したがる人格が存在するのか)

「アリのようにいるだろ」

 街に出かけると、そこで私が見かける人間のほとんどは創価ストーカーとなる。別の街に移動してもそうである。行き帰りも移動中もそうである。行き先をあらかじめ決めずに、歩きながら決めてもそうである。

 いったい私に対して何人掛けているのか、見当もつかない。これも妄想編として出そうかとも思ったが、これが私に見える現実なのだ。

 冒頭のセリフは、最近秋葉原で創価ストーカーの一人が私に言った(と自分では思っている)ものである。確かにいかれた顔つきのロボット人間がアリのようにうようよいる。私は次のように読み取った。

1)彼ら信者は、自分がアリ扱いであることに何の疑問も持たない存在である。

2)創価指導者は、全日本人(願わくば全地球人)を自分のために動くアリに作り変えたいという願望を持つ者である。

 最近のニュースで、女性を殺害後バラバラにしてトイレに流すという事件があった。被告の星島は、被害者を「性奴隷にしたかった」と法廷で述べたそうだ。殺害は一人だが、検察は死刑を求刑した。(一審判決は無期懲役)

 私は、この星島と創価指導者の人格について、何が違うのかと思う。何も違わないだろう、と。むしろ後者の方が膨大な人間を不幸にする点、はるかに罪深いと思うのだが。

 創価のやり口を検証してみると、「卑怯」「醜い」という言葉では言い尽くせない人格のいやしさを感じる。まともな人間ができることではない。

 そこで表題である。「なぜこうもクズなのか」

 言い換えれば、「なぜこうも無用に他人を侵害したがる人格が存在するのか」ということである。

「生まれながらそういう人格なのだからどうしようもない。人格は才能と同じで生まれ持ったものだ。」

「脳の欠陥である」

 こういう考えに私は同意する。しかしこれでは話が終わってしまうので、あえてこういう人格を「正常な人格中の程度の差」であると仮定し、これを前提に話を進めようと思う。

 仮の話を。私に人生の選択肢があるとする。それは、私がカルト教の指導者あるいはキムジョンイル的な地位(絶対者)に立つことができるというものとする。私はどうするか。

(私の答え)

 そういう人生は選択しない

(理由)

1)自分が絶対者となって、他人が思うように動いたとしても面白くもなんともない

2)自分が多くの他人を苦しめるクズであることに耐えられない

3)私は自分の死後、自分の行いが裁かれるかもしれないと感じている

これを土台に考えてみる。

 理由1を土台とする考察(なぜ他人を動かすことにこだわるのか)

 私は、勉強・スポーツなどにおいて、他人と競争することに楽しさを見出すことができる。別に競争中毒ではない。自分の能力を上げるためには、日々の地味で単調な努力が必要だが、競争を餌にモチベーションを上げようというわけだ。

 ずいぶん傲慢な言い方に聞こえたかもしれないが、そうはとってもらいたくない。私は特別能力が高いわけでもなく、エネルギッシュでもない。自分の世界でコツコツやるのが好きだというだけだ。

 結局、自分自身に最も関心があるということだろう。これはこれである種の病理と分析される方もいるだろうが、別に他人を侵害するわけではないので、私に絡んでくる奴の病理とは全く異なる。

 また私は、常人離れした高い能力・人格を持つ他人に興味がある。過去の天才の業績や生き方、風変わりな性癖などを読むのが楽しい。

 しかし、自分が絶対者となって他人を押さえつけてしまったならば、そういう傑出した人達は生まれにくくなるだろう。

 で、なぜクズは絶対者として他人を侵害したがるのか。

(私なりの答え)

 クズはあまりにも無能である。またはどうしようもない無能だと思い込んでいる。あるいは臆病者である。だから一人で競争に飛び込むことができない。組織のバックがなければ生きていけない。

 一方、クズは自己愛が人一倍強い。

 この落差が大きくなればなるほど、クズの自己実現は他人を支配したいという願望へと近づく。

 競争などには関心を持たず、自分が没頭できることに身を投じる生き方もあろう。しかしクズは感受性が鈍く(他人を苦しめることを平気でできる奴だから)、この世の様々な興味深い現象に関心を持たない。よって、やはり権力のみを志向しがちとなる。

 私は自分の答えを書いてみて、いまいちだなあと思った。というのも、自分はこの種の人格に共感するところが全くないからである。

 しかし、この部分のメモを書き終えた後、思わぬ反応があった。まずその事情を書く。

 現在私のパソコンは使えない状態にある。犯人は私に絡むストーカー組織ということだろう。そして、この原稿を書くため、またネットを見るために、北区中央図書館に通っている。「私なりの答え」を手書きのメモに書き終えた日の帰宅途中でのこと。

 夜8時過ぎ、東十条~大宮間は朝のラッシュを思わせる混雑振りだった。私はこの図書館に通い始めてから一週間くらい経つが、その間は座れるかどうかというくらいで、全然混んでいなかった。

 桶川に引っ越したときと同じパターンである。創価ストーカー達が数で圧力をかけてきたわけだ。(結局この日以来ずっと混雑している)

 座っている男子学生の3~4人のグループが何やら大声でしゃべっている。ドラゴンボールの話らしい。私はこのアニメの内容を全く知らない。キャラクターの話をしているらしく、どいつがどいつより何百倍も強いとか言っている。怒鳴るように熱中している。彼らは降車の直前に次の言葉を何度もまくしたてた。

 「素人が」

 「全然わかってない」

 大宮駅で高崎線に乗り換える。そこにいたおばさんの2~3人も大声でしゃべっている。彼女らも降車の際に怒鳴りだした。

 「調子に乗りやがって」

 「調子こいてんじゃねえよ」

 どうも、私に対するストーキングを指揮している創価指導者がとても怒っているらしい、と私は感じた。その原因はというと、私のメモ中の次の言葉しかあるまい。

 「無能で臆病者のクズ」

 せっかくの反応なので、いまいちな「私なりの答え」を補強しようと思う。

 臆病者なのか、何百倍も強いのか。

 まず、過去にストーカーが私に投げかけた言葉を挙げる。

 「おじゃまむしなんだよ」

 「おまえはバウンドしすぎた」

 「田舎者は帰れ」

 「実家に帰る」

 私に東京(圏)から去れということなのだろうか。

他にも、「40歳過ぎてから外国に渡ってなんとか生活している人の話」とかを、おばさんストーカー達がしていた記憶がある。

 しかし、私はこちらで普通の生活をしているだけであり、また帰ったからといって安全が保障されるわけでもない。無法者集団のほのめかしにハイハイと従うわけにはいかない。

 だいたい、私のようなそこらの個人に対して、巨大組織を使った暴力的追い落としを行う、テクノロジー兵器を使う、メモを盗み見る。そこまで気になるのか、何を恐れているのか。そのメンタリティーは「誇大妄想、臆病」というしかないだろう。

 何百倍も強いのか。大きな組織の上に乗っかっていることは知っている。しかし、組織の指導者裸の個人が有能かどうか、強いのか臆病なのかは知らない。ただ、こんなことをするような奴は、と思いついただけである。

 そして、この反応は、「私なりの答え」がそれほど的外れではないことを示すのではないかと考える。

 理由2を土台とする考察(クズには自尊心はないのか)

 先程の反応について。もしこれが「無能で臆病者のクズ」という言葉に傷ついたものであるならば、ストーキング指導者にもプライドらしきものは残っているとも思える。

 しかし、彼らについて、このような反応は非常にまれである。彼らが私に投げかける言葉はほぼ100パーセント、不適なもの、自分たちがいかなる批判にも動じないことを強調するものである。強気に振舞う、強気を装うのである。これについて解明を試みる。

 

 彼らは長年にわたって不当な利益を享受してきた。理不尽を通してきたわけである。それは強奪に等しいと前に書いた。

 しかし、理不尽を通すことも簡単ではない。それを実現するために最も必要なことは何か。

 「何があっても、何と言われようとも引かないこと。非を認めないこと」

 これを彼らは選択したのだと私は考える。評価(1)でタチの悪い子供の話をしたが、こういうやり方である。これにより既成事実を維持するのである。

 この手法を別の言葉で言い換えるならば「鏡のようにはね返す(拒絶する)手法」といえる。それは知性・理性を放棄し、検証を放棄するものといってよい。

 例えば、彼らはこんなことを言った。

 「こんなことしかできないんだよ」

 (私の解釈「自分たちはこんな嫌がらせしかできない愚かな存在なんだよ」)

 私は彼らと議論しているわけではない。彼らが一方的に私に聞かせようとしているだけである。それはつまり、私に対する効果を狙っただけの言葉だということだ。このようなことを真に認識・自覚することは、自尊心をかなり損なうものであり、このような言い方にはならない。そもそも議論をしていない私にわざわざ聞かせようとするはずはない。この言い方には含みがあるのだ。「こんなことしかできないんだよ。それがどうした」ということだ。クズである自分を無条件肯定するものだ。

 たとえ語っているような形を作ったとしても、実は何も語ってはいないのだ。語りではなく、反応なのである。彼らは理不尽を通すことをはじめから決めており、自己検証を拒絶しているのだから。

 これを実行し続けるためには、迷いがあってはならない。「プライドらしきものは残っている」と書いたが、本当はそんなものは残してはならない。

 迷いをなくすためには、自己の真の姿を見ない、見ることを拒絶する、疑問を持たないことが必須となる。考えずに採るべき反応のみあらかじめ決めておくのだ。

 彼らの自尊心の正体は、自尊心から「厳しい自己検証」の過程をあえて除き、「ただ引かないこと、意地でも通すこと」にすり替えたものといえる。

 これは、「相手を妨害したこと、相手の感情を乱したこと」にかろうじて自己の勝利をみる、一種の自己催眠といえよう。

 人間が成長するには、自己の肯定と否定を繰り返す揺れ・葛藤が必要と考える。しかし彼らにはそれが全くない。クズである自分を無条件に肯定しようとする。プライドらしきものがあるとしても、その実体は、他者の尊重を伴わない幼児的な自己中心性であり、自己検証をも放棄しているため、救いようのない暴力性となって現れるのだろう。

 クズとは「決して自分に向き合おうとしない奴」という結論になった。

 だから批判を恐れる。現に批判をしている者のみならず、私のような、いつか批判をするかもしれない性格を有する者まで探り、根から潰そうというパラノイアに陥る。この度量のなさは何だろうか。

 批判に対して返す言葉がないだけではない。

 本当は言われたくないのだ。あまりに醜悪な自分を直視したくないのだ。

 理由3を土台とする考察

 人間は死後、自分の生前の行いをあの世で裁かれる

 こういう考え方は宗教的なのだろうか。私は特に信仰する宗教・宗派を持たないのだが、こういう考えを捨てきれない。

「捨てきれない」といったのは、これが論理的に説明できないからである。これは、自分は死後どうなるのかという誰にも答えられない問いに対して、自分を納得させるひとつの手段である。

 しかし私は、物質が何の意味もなく存在するとはどうしても思えないのだ。理由もなく存在するという考え方のほうが不自然に思えるのである。

 だから、宇宙が消滅してただの無になってしまうとはどうしても思えない。その「無」とは、有に対する概念である無そのものが意味をなさない世界、いや、世界がそもそもないのだから、表現不能な意味での無、とでもいえようか。これは確かに恐ろしい。

 でも私は、もしかしたら根が楽観的なのか、無教養だからか、俗っぽい方(魂とか)にシンパシーを感じてしまう。

 もちろん、仮に死後私が何らかの形で存在しうるとしても、それがある倫理的価値観に基づく裁判に結びつくとは限らないのだが、私はある種の普遍的価値観が宇宙をも越えて存在すると信じているのだろう。

 これは単なる慰め、都合のよい妄想だといわれればそれまでである。

 しかし、ないことも立証できないのだ。死後のことは誰にもわかるまい。

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5-8 無間地獄とは何か  評価(1)

 「狙った相手を集団でいたぶりぬく」

 彼らはこれを躊躇なくやる。路上や車両の者は、冷徹にというよりは、極悪ぶりを強調しながら行う。

 ある者は薄笑いを浮かべながら、ある者は高笑いをしながら。

ある者は私が頼んでもいないのに言葉を聞かせようとする。その内容は、彼らが四六時中仕掛けるわなにより、私が少しずつ損をしていく過程で、あたかも私の気持ちを述べているかのような形で私にぶつける。その言葉は、必ずマイナス思考の言葉である。実際にはこの現実を乗り切ろうとプラス思考に考えていたとしても、それを無理やり欝にもっていくための心理的手法である。

それ以外の言葉は、自分たちがいかに極悪か、倫理観がないかを強調したものである。これも同様、私に絶望感を与え、自らつぶれるように仕向ける心理的手法である。

さらに電磁波兵器となると、完全にテロリズムの範疇だろう。

末端の奴らは指導者の意のままに動くコマに過ぎない。いわば兵隊なのだ。創価学会は、一部の構成員に対して、おそらく軍事訓練のような形で、ストーキングの手法を叩き込んでいるのだろう。ターゲットがどうしても注視してしまうような不自然な体のしぐさ、蛇行しながらターゲットにニアミスする乱暴な歩き方・自転車や車の乗り方、耳につくしゃべり方、奇声の発し方など、共通のものがある。

彼らは、無関係な他人に危害を加えるための道具と化した愚かな存在だが、その背後にはもっと悪いやつがいる。

私がこれまで書いてきた様々な手法を考え出した者、実行するよう指揮している者である。創価の指導者(指導層)というのは、人格的に最悪の部類に属するといってよい。

ではなぜ創価学会はこのような悪行を続けるのか。

以下ではこれについて考えてみたい。

●なぜ悪行をやるのか

 私が創価のストーキング行為について手書きの草稿をまとめていると、まもなくわかりやすい形で反応が返ってくる。大まかに区分すると次のようになる。

 a より巧妙にわかりにくい手法に変える

 b 私が書いたことをこれでもかとばかりに強調して行う

bの例

     私がメモに「物流業者が台車でそばに寄ってきて騒音を立てる」と書けば、後日、より大きな台車で、または多くの台車で嫌がらせを行うもの

     電車内で携帯電話を使ってしゃべる創価ストーカーに対し、私が注意すると、携帯電話でしゃべりながら寄ってくるストーカーをいっそう多く投入してくるもの

 abどちらも創価の性質だが、ここではbを手がかりに考えてみたい。

 子供ABの二人が口げんかをしている。Aは理屈で追い込まれたとしよう。Aはどういう反応を示すか。以下のものを想定してみた。

(イ)   別の理屈を探す

(ロ)   黙る

(ハ)   これまでの自分の主張をそのまま繰り返す

(ニ)   机をひっくり返す

 負けを認めたくないという意思のみ先行する者は(ハ)(二)を選択するしかないだろう。これらは知性がゼロでもできる。ただし、効果的ではある。

 Bは自分の能力や努力が全くむくわれないため、次第に消耗し、ついにはさじを投げる。

 そうすると、Aは議論の内容で劣勢に立つにもかかわらず、相手を黙らせたという既成事実は作れる。それがAの狙いだ。(狙いというより、単なる自己防衛反応といったほうがよいかもしれない。)

 創価の手法は(ニ)である。これはいわば場外乱闘である。自分たちに一分の理もないことが自分にも分かっている、だから大声でわめいて場そのものを壊すしかないのだ。

(だいたい、集団で特定個人をつけまわし、音を立てて消耗させようという発想自体が最悪なのだ。創価ストーカーの言葉にこういうのもあった。「消耗する?」)

 個人の領域を尊重する価値観、基本的人権、あるいは自然権というものは、それがたとえ論理的に説明し得ないものであっても、現時点における普遍的な価値観である。ある人物に見も心も捧げるという考えとは対極にあるこの価値観に、大部分の人が賛同するのは当然であろう。「他人のものは俺のもの、他人そのものも俺のもの」そんな考え方は、現代世界のどこにおいても通用するはずがないのだ。

 しかし、まともに議論したならばそれを認めざるを得なくなる。そうすると、教団幹部は全てを失う。不当に得たものを返さなければならなくなる。だからこそ悪行を重ねるしかないのだ。

(後記1)

 最近のストーカーの言葉に、「やってみなきゃわかんないもんね」(私の解釈「ブログにいろいろ書いても無駄だ」)というのがあった。彼らはいつも強気を装う。

 しかし、実際やることといえば、メモの段階から私が書くものを盗み見したり、私のパソコンを動かなくするとか、経済的に疲弊させるとか、そういう下衆の最後の手段のようなことばかりである。

(後記2)

 私が上記のテーマを考える際に、いつも頭に浮かぶ姿がある。それは小泉元首相の姿である。

 実家にいた頃、私は、BGM代わりのNHKラジオから聞こえてくる国会中継にしばしば引き込まれた。

 なぜ引き込まれたのか。それは、当時の小泉首相vs野党の論戦がたいそう熱の入ったものだったこと、そして首相の幼児的なまでのはぐらかしがその論戦をいっそう白熱させていた点にある。

 小泉氏は大きな声で堂々と自論を繰り返す。そして多数のチルドレンが盛り立てる。野党の質問者は疲れ果て、さじを投げる様子が何度も耳に入ってきた。私はこれを聞きながらこう思っていた。

 「厄介な相手だよな」

 「言葉や論理に対する誠実さを捨ててしまったら話しにならないだろ」

 「自分が質問者ならば、どうやって効果的な一撃を加えることができるだろうか」

 このような相手に対してどういう対処法があるか。

 先程の子供の例ならば、周囲で観察している人間が評価することになろう。まっとうな社会ならば、子供Aは人望を失い、リーダー的な地位に付くことができなくなるだろう。

 国会の場合ならば、それを見ている国民が、と言いたいところだが、今から考えれば、だからこそというか、元首相の本当の姿を国民に気付かせまいとする権力側の意図が働いたのだろう。

 つまり、共犯としてのマスコミの責任のことである。これについては既に多くの人が分析している。

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5-7 無間地獄とは何か  自宅で

 私は再び上京してから、亀有→平塚→桶川、と転居してきた。ただ、金もないのに引越しなどしたかったわけではない。

 亀有にいた頃、郵便配達で50万円ほどの貯金があった。

 自宅と職場での様々なストーカー的嫌がらせを切り抜けてきたが、創価はついに電磁波兵器を使ってきた。当初は体の振動により睡眠がとれず、さらに職場でも打たれたので、ひとつのミスも許されない郵便の仕事を続けるのは無理と考え、仕事を辞め、格安の転居先を決めた上でアパートを引き払い、いったん自宅に戻った。司法試験が2ヵ月後だったので、試験勉強をすることにした。

 その選択を迷っている頃、私の郵便配達担当地区である汐留シティーセンターのストーカーは、エレベーター内でこんなセリフを吐いた。

 「おれさあ、虎の子の50万円使うことにしたんだよ」

 試験の翌日、平塚に転居した。平塚といっても相当の奥地で、駅から自転車で30分くらいかかる。節約のためバスは使わず自転車を買ったのだが、その自転車も創価にパンクさせられるので、空気の変わりにゴム素材の入った特注のタイヤをつけてもらった。これだけでも普通に自転車を買う倍くらいの金がかかる。創価はこのようにターゲットを追い込んでいく。私は住居侵入されてもカメラもつけず、金はなるべく使わないようにしてきたが、それでも、こいつらのために使う必要のない金を100万円は使っているだろう。

 平塚の雇用促進住宅は、約40世帯が居住する建物3棟から成り、私は真ん中の1棟に入った。

 覚悟はしていたが、亀有よりも状況は悪くなった。街から遠く隔絶した、比較的大規模で、ほとんどの住民は創価の協力者である(私にはそう見えた)場所に住むというのは、収容所に入れられたようなものだった。

 入居後、私の部屋の前には大きな電灯が灯された。ライトアップである。これはストーキングの一手法で、夜歩いているときに向かってくる車が私を照らすという形でよく行われる。平塚は転職までの短期間の宿と考えていたので、カーテンも買わず、前に使っていたものを一部の部屋に付けただけだった(雇用促進住宅は2DKで独り身には広い)。残りの部屋は夜中じゅう明々と照らされた。

 そして、亀有のときと同じく、私の住居と接する別の部屋に創価の監視人が付いた。監視人は、亀有では私の下の部屋に構え、平塚では私の上に陣取った。

 そいつはビデオか何かで私を盗撮しているらしく、私の行動を見てはなにやらぶつぶつ言っている。また外部と頻繁に連絡を取っているようだった。そこから聞こえてくるのは関西弁で、たとえばこんなことを言っている。(私が電磁波を打たれているとき)

 「いてえやろ(痛いだろ)」

 「きいとんな(効いてるな)」

 「おら、いくぞ」

 これが亀有でずっと下から聞こえてきた声とそっくりなのである。自分では同じ人間が自分に付いていると考えているが、正確なところはわからない。(ちなみに現在住んでいる桶川では隣に監視人がいる。もちろん不動産管理者が創価の協力者であることは疑いない)

 亀有では、下階の人物について不動産管理会社に尋ねたことがある。名のある会社のまじめそうなサラリーマンだと言っていた。しかし、私が起きている限りは必ず起きており、私が帰宅すれば必ずいる(郵便のバイトは終了が16時くらいで、通常17時半には帰宅できる)。おそらく名義人とは別の人間がいるのだろう。創価が飼っている特殊部隊の一人だと考えられる。

 ただ、そいつが電磁波を打っているかどうかはわからない。部屋の周囲の壁がきしむ音が頻繁にし、住居に普通置かないようなものを操作している雰囲気はあるが、納得いかない点がある。

 それは、私は仕事場でも公共施設でも、外での歩行時でも、自転車で畑のような場所をうろうろしていても電磁波を打たれるのだから、それができるならば、わざわざ私の隣に人をつける必要はないと考えられるからだ。

 長い前振りとなった。現状ではなく回想といっていよいが、この前振りは、現状を語る前に知っておいてもらいたい点である。つまり、私はどこへ行っても創価収容所に住まねばならない現状にあるということである。軟禁状態なのだ。

 以下、自宅におけるストーキング(拷問のようなもの)の実例を記す。

(電磁波によるもの)

Case1

 私が筋トレをすれば、鍛えている部分に電磁波を打ち、数がこなせないようにする

Case

 私が英語を朗読すれば、あごの筋肉に電磁波を打ち、ろれつが回らないようにする

Case

 私がネットや本を見るとき、尻や睾丸に電磁波を打ち、集中できないようにする。あるいは、頭に打ち、眠気により読めないようにする

Case

 私が食事をするとき、下腹部に電磁波を打ち、味わえないようにする

(彼らの嫌がらせ(拷問)に対するキチガイじみた執着はこういうところに現れる。私の動きに一秒たりとも目を離さず、耳かきを耳に入れたときに下腹部に電磁波を打ったり、私がパソコンの前を通ったときにスリープ状態になっている画面を起動させるなど、ターゲットに付きまとうことに異常に執着する。)

Case

 頭痛、吐き気、腹痛、寒気などをもたらす体の場所(神経)に電磁波を打ち、これらの症状を起こさせる

(電磁波以外)

Case

 ネット検索の妨害(よく見るサイトを開けなくする)、文字打ちの妨害(漢字変換をめちゃくちゃにする)

(現在はパソコンそのものが立ち上がらないようにされている)

Case

 生卵などを置いていると、下剤を入れるので(たぶん注射器で)保管できない

Case

 シャワーを浴びるとき、熱湯とぬるま湯を交互に浴びせ、適温にさせない。2つの取っ手を使って調節するタイプだが、それらの水量を外(つまりは隣の部屋)から操作できるように改造している。自分が弱く出していても、いきなり強く熱湯や冷水を噴出させるようなやり方をする。

Case

 私が出かけるとき、差し込んだ鍵が抜けないようにロックする。(電車の発射時刻ぎりぎりの時などにやれば効果的である。)

 これについては職場(ホテル)で次のようなほのめかしがあった。

 たまに同僚のメイドと同じ部屋を共同で清掃することがある。ある日のこと。

 同僚「三宅さん、ちょっとちょっと。この扉、開かないのよ。」

 私は開けようとしたが、びくともしない。あきらめる。

 同僚「開いたわ、三宅さん」

 開いた扉を見てみると、磁石で接着する簡単なものだった。

 こういうのをロックできる仕掛けかテクノロジーがあるということだろう。創価は好んでこういう三文芝居をやる。

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5-6 無間地獄とは何か  外で(その他)

(言葉攻め)

 創価ストーカーが、芝居がかった会話あるいは独り言の形で、私にメッセージを送る、これについては以前のレポートでも紹介してきた。

 その特徴は、自分たちが理不尽なことを仕掛けておきながら、それに対するターゲット(私)の反応を、わざと否定的に捉えて、それを言葉の形でターゲットに返すというものである。そうやって二重に苦しめようという手法である。一例を挙げる。

 例えば、仕事場で現場の指導者が私をなじる。私にミスがあればそれをことさら挙げつらい、ミスがなければ、気が利かないとか、何でもよい。

 私は、もうわかりきっていることだから、適当に相手をして、それでも相手が突っかかってくるなら、黙っている(つまりは無視)としよう。

 すると、休憩時に創価側が私の反応を分析する。そして、はじめから(私の反応について)悪く取ることに決めた上で、私に返す。それはまったく別人の別の事柄の会話(要するに他人の会話)としてである。ただ、私にはピンとくるような会話の内容にする。

 休憩を終えて、仕事場に戻るエレベーターの中での他人の会話。

「あれでよくやっていけるわね。(正確なところは忘れてしまった。ただ、私が黙っていたことを社会性がないとして伝えてきたことは確か。)」

 これをまともに受け止めてしまう人ならば、創価にからまれるときついことになろう。人間、明らかに嫌がらせのための言葉だとわかっているとしても、心が動いてしまうものだからである。

 私の場合、過去にそういう悪意のある言葉を聞き流す訓練をしたことがあるので、いちいち傷つかないが、うっとおしいことには変わりない。彼らがいない社会のほうが良いに決まっている。

(自宅の窓から)

 私は現在、4階建ての小規模賃貸マンションの4階に住んでいる。見晴らしは良いほうだ。

 そこで毎朝のラジオ体操を日課にしている。外の景色を見ながらやるのだが、冬のこの時期(2月初旬)、外はまだ電灯が灯っている。

 そこにも創価はやってくる。私が見ている外の景色の中の電灯の一つを、ラジオ体操の音楽に合わせて、明るさに強弱をつけるのである。そこに私の目を向けさせ、ストーカーの存在を意識させ、リラックス感をなくさせるためである。

 電灯とは別の方向に目をそらすと、そこにカラスを飛ばしてくる(「カラスを飛ばす」というのも創価がよく使う手である)。

 地面に目を向けると、そこを信者が歩行する(私の住居の周辺にいつもスタンバイしているということだから、異常な献身である)。とにかく私の視界に動かない景色を作るまいとする意思が感じられる。

(地面のふたに細工をする)

 道路・駅・建物には、下水に通じるふたが設置してある。

 このふたは、周囲の枠(地面)とピタリとはまっていなければ、その上を歩いた際に大きな音がする。

 彼らは、普段私が通る道筋にあるこういうふたに細工をする。もともとちゃんとしたものをずらすのである。コンクリートのふたならば、こわれていなかったものにひびを入れたりもする。

 その目的は、私がそこを通る際に、私もしくは彼らがそのふたを踏みつけ、騒音が出るようにするためである。

 これと同様のことを電車の車両でもやる。

 車両と車両の連結部分の金属に細工をする。電車が揺れる際に、その連結部分が大きな音を立てるのである。

(子供を使った手法)

 子供といっても幅があるので、以下のように区分する。

イ)一人で行動できる子供

ロ)一人では行動できないが、親の後をついて歩くことはできる子供

ハ)まだ立って歩けない子供

イ→大人と同様のストーキングをやる。

自転車を蛇行させてあるいは蛇行して歩き私のすれすれを通る、やかましく騒ぐ、挙動不審の体の動きをする、など

ロ→やかましく騒ぐ

 ストーカー要員として育てられていると考えられる子供の特徴は、声が大きい、奇声を発する、乱暴に振舞う(おもちゃや遊び道具を投げつけて騒音を立てるなど)というものである。そばにいる親は、一応注意はするが形だけである。(普段から容認していなければそのような振る舞いはしないと思われるほどうるさい。元気のいい子供とは質が異なる感じだ。)

ロ→子供を泣かせる

 子供の泣き声を騒音として私に聞かせる。そのために子供を泣かせるのである。私に対するストーキングの場合、ほとんどは子供のそばに保護者らしき者がいて、何か子供とのコンタクトを取っているようだが、わざと会話をかみ合わないようにしているような感じである。(正確にはよくわからない)

変わった例を一つ。

亀有駅前のイトーヨーカドーで、私がエレベーターに乗ると、後から中年の女性が乗ってきた。よく見ると、4,5歳くらいの男の子を羽交い絞めにするように抱えている。男の子の足は宙に浮いており、暴れて泣いている。しかし女は降ろそうとしない。女の顔を見ると、顔は真っ赤で、まっすぐ正面を向いており、目はどこにも焦点が合っていないようで、子供を抱えていることすらわかっていないのではないかと思える表情だった。

ハ→子供を泣かせる

Case1 電車の車両の中にはたまに変わった種類のものがある。基本的に横長の座席なのだが、一番奥のみ縦の2人掛けが付いているものである。

 ある日、私は横長の座席の右端に座った。そしてあとから、子供を抱えた男が縦の席に座った。距離はすぐ近くで、私の右の視界に彼らが入り、彼らは正面に私が見える構図である。縦の席の前には手すりのバーがある。

 子供が手すりに頭をぶつけそうになるのが見えた。当然抱いている男がフォローするだろうと思ったが、何もせずに見ている。子供は手すりに頭をぶつけた。当然泣き叫ぶ。

 首がやっと据わるくらいの子供である。この男は子供を金属の棒で殴っているに等しい。

Case2 ある日の仕事帰り、私は電車の座席に座った。すると私の目の前にベビーカーが止まった。中には赤子がいる。

 何をやってくるのかと思いながら見ていると、間もなく赤子がけたたましく泣き出した。しかしそれは3~5秒くらいでぴたりと止んだ。しばらくするとまた同じように数秒間だけ泣いた。その泣き方はすさまじいもので、何かよほどひどい目にあっているような感じだった。周囲は何も変わった様子はない。保護者らしき女も平然としている。

 どうやって泣かしているのは外観からは全くわからない。この日から何日か経って思ったのは、電磁波を赤ん坊に打ったのではないかということだが、自分に打たれているのではないので、これは憶測に過ぎない。

(騒音を聞かせるためのさまざまな手法)

     自転車で私に近づき(または待ち伏せして)、自転車後部のスタンドを下ろす(足でける)。または、鍵を解除してガチャンと鳴らす。

     電車で私が車両の端に座っていると、頻繁に車両を行き来し、連結部分のドアを乱暴に閉める。

     私がベンチに座っていると、動くだけで摩擦音が出るナイロン素材の服を着用し、私のそばを通る。

     私がベンチに座っていると、ヒールの音を響かせて私のそばを通る。

(その他)

     私が公共施設のトイレに入ると、ついてきて隣で用を足す。その際にため息・独り言・鼻歌・口笛など、目障り・耳障りな振る舞いをする。

     よく行く総菜屋で、清算をしているときに、別の者が商品を少し置くにもっていき包装する。その際、一度ひっくり返してから包む。私が帰って中を開けると、おかずの汁が飛び出し、ナイロン袋にべたべたにくっついている。

     私が2度3度続けて同じ商品を買うと、それを値上げしたり、買えないようにする。後者の例。私は大宮駅構内のikariという食品屋で何度か同じドーナツを買った。それは90円だがボリュームがあり(ミスタードーナツのオールドファッションの1・5倍くらい)、甘さが抑え目で、私は気に入り、買うときは一度に3個くらいまとめて買った。創価はそれが私の力になっていると思ったのだろう。ある日買いに行くと、「製造中止になりました」とのことだった。

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5-5 無間地獄とは何か  外で(触)

(触のポイント)

 「つきまとう」「寄ってくる」がエスカレートすると、「体をくっつける」「触る」ということになる。満員電車はターゲットに触れる絶好の名目となる。最近の傾向を書く。

Case1(満員電車なら)

     肘やカバンで私の体をつつく。

     ストーカーが、つり革につかまった自分の腕を私の頭に当てる。

     足場を占有し、私が自分の体を支えられないようにする。

     靴のかかとを踏む(ホームを歩いているとき)

Case2(満員ではないが、混んでいる電車なら)

 私に触れないが、私が少しでも動くと触れてしまう位置に体を寄せる。

(エレベーターでも同様。創価がやっているストーキングの手法でこれより残虐なことはいくらでもある(電磁波など)が、この手法は、この教団の陰険を極めた体質をよくあらわしていると考える。)

Case3(電車で座っているとき)

 隣に座り、わざと体をくっつける。その際、体をこするように動かしたりする。

(わいせつ目的なら完全に痴漢である)

Case4(歩行者)

 対抗から来る者、あるいは横・斜め後ろから割り込んでくる者は、その必要がないにもかかわらず私に近づき、私の体をすれすれに横切る。そうやって私の気を休ませないためのストーキングの手法である。

 しかし、ぶつからないとわかっているならば本を読みながら歩けばよい。そこで彼らは、歩行者の中に、ニアミスではなく私の腕や足、ひどいときには正面からまともにぶつかる者を混ぜてくる。(完全な暴行である)

 私は、あまりに露骨な者に対しては肘で殴ったり蹴飛ばしたりしてきた。

 そして、創価側は一歩踏み出してきた。

 一月一日、私は仕事帰りに大宮駅に立ち寄った。改札を出て左に歩いていると、例によってぶつかってきた。

 一人目。にらみつけて怒鳴りつけた。

 すぐに二人目。私は怒鳴りつけようとしたが、その言葉を発したか否かのことだった。

 相手は私の顔面に頭突きをくらわした。

 私は床に倒れ、鼻から大量に出血した。私は相手の足に捕まって起き上がり、相手の頭を殴った。効いていないようだったので、もう一発こぶしを向けたがかわされた。

 互いに襟をつかみ合い、私は改札の場所まで相手を引っ張り込んだ。

 そのとき相手はこんなことを言った。

 「おまえも手を出したんだからな」

 そして警察へ。

 警察で調書を取る。警察官の対応は、ぶつかるまでに私も避けなかったこと、頭突き後に私も手を出したことを強調したい風だった。

 これで喧嘩両成敗にされてはかなわないのだが。

相手の割と冷静な対応ぶり(頭突き後は全く手を出さなかった)をみると、ただの喧嘩好きの所業ではないことがわかる。命令されたのだろう。

私は一応自分の置かれている状況(創価によるストーキングの件)も説明はした。しかし、一対一の小競り合いとして処理されるであろう。ただ、ダメージの差ははっきりしており(私は血だらけ、相手は無傷)、相手が先に手を出したことについても争いがないようだったので、警察はそれなりの処置はしてくれるとのことだった。ただし、傷害罪で訴えるには医師の診断書が必要であり、起訴されるか否かは検察官しだいということだった。

 私は正月の夜10時に、深夜の救急として病院に出向いた。その後2回通い、合計2万円近く出費した。

 創価のシナリオとしては、こんなところだろう。

     私にトラウマを与え、今後のストーキングをやりやすくする

     私を経済的に疲弊させる(検察官の判断、もしくは相手の対応しだいでは、治療費を取り戻すのは困難になろう)

(追記1)

 事件現場は大宮駅改札を出てすぐの場所である(2階の改札を出て左に曲がり、マネケン(洋菓子屋)までの途中)。

 事情聴取中、私は、この場所なら当然カメラが取り付けられているはずだと考えたので、カメラを見てもらったほうが早いと警察官に訴えた。警察官は、JRに問い合わせてみるとのことだった。

 後日再度の事情聴取があったのだが、そのときの警察官の回答によると、あの場所はたまたまカメラが取り付けられていないということだった。

私は現在新橋で仕事をしているが、新橋駅から汐留までの歩行中(地下道)に毎日ストーキングを受ける。地方の商店街でもカメラを設置している現代日本の、しかも新橋で、カメラが設置されていないということは考えられない。ストーキングの証拠が残っているはずである。

それは、新橋のみならず、大宮(事件日以外にも何度か来たことがあるので。ここのストーカーの数はほかの場所と比べても非常に多く感じる。)、以前住んでいた亀有、平塚、訪れたことがある都内(新宿など)、これらの駅や周辺の道路において、完全な証拠があるはずである。そこには私に向かって飛び出すタイミングはもちろん、打ち合わせの様子などが写っていることが十分予想できる。

もし残っていないとJRその他の管理者がいうならば、それは別の意図があると考えるべきであろう。

(追記2)

 事件から数日後。満員電車内のストーカーが私にべたべたくっついてきた。

 あまりにしつこく、さらに体ごと私にもたれかかってきたので、私はそいつの背中を肘で殴った。ちょっと言い合って離れたのだが、仕事場に着くと、従業員ストーカーはこんなセリフを吐いた。

 「また前のめりの奴を突っ込ませようかな」

 (私の解釈)

  また頭突きを食らわせるぞ

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5-4 無間地獄とは何か  外で(嗅・味)

(嗅のポイント)

 視覚・聴覚・触覚ほどの定型性はない。こういうこともやってくるという例。

Case1(電車内)

私にくさい息を吐きかける

私におならのにおいを嗅がせる

(味のポイント)

 私がある食堂に何度か通うとする。

すると、まもなくその食堂は創価食堂と化する。客の顔ぶれはもちろん、店員もそれらしい雰囲気の人間に入れ替わる。

たいてい彼らは、私の食事中に音を立てて嫌がらせを行う。(騒ぐ・鼻をかむ・せき、くしゃみをする・厨房の店員がなべなどの道具をたたくなど)

ただ、現在外食は週1程度で、毎日利用しているのはバイト先の従業員食堂である。そこでは少し雰囲気が異なる。ホテルだからか外の客ほどうるさくはない。ただ、彼らの性質からして何もしないということはない。ストーカーが自販機などの業者としてうろうろし、仕事のふりをしては耳障りな音を出すのはよくやる手である。その他にはつぎのようなこともやる。(これも視覚・聴覚・触覚ほどの定型性はない。こういうこともやってくるという例)

Case1(私が気に入っていた素材を別のものに代える)

 今の従業員食堂で、私は生野菜には必ずサウザンアイランドドレッシングをかけてきた。

 ある日、サウザンが入った容器の色が微妙に違って見えたので、店員に聞いてみた。

「メーカーを変えたんです」ということである。

 試しに、2,3滴かけてみたが、やはりまずかった。

Case2(ただまずいものを出す)

 メニューは日替わりである。

 ある日、ドライカレーを注文した。出てきたのはうすい黄色がかった透明のあんがのったごはんだった。

 私「これ、ドライカレーなんですか」

 店員「はい。これが当店のドライカレーなんです」

 (ここまでわかりやすいことは、最近はやってこなくなった。)

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5-3 無間地獄とは何か  外で(聴)

(聴のポイント)

 「視」と共に集団ストーキング行為の中心をなす

「音を立てる」、これは彼らによる組織的いやがらせの中心である。あらゆる手段を使ってくる。せき、くしゃみ、舌打ち、口笛をはじめ、持っている傘やカバンを床に落とす、足を地面にたたきつけるように歩く、靴を床にこすりつけるなど、挙げていくときりがない。

 多人数が入れ替わり立ち代わり私に騒音を聞かせることにより、精神の安静を与えないようにする手法である。

 ここでは最近の傾向を書く。

Case1(とにかくしゃべる1)

例えば私が自宅近くのデパートや公園のベンチに座っている。

すると、ケイタイで「もしもーし」としゃべりながら寄って来るストーカーが、あるいは会話をしながら寄って来る数人のグループが頻繁に現れる。あるいは、私がよく行く場所にあらかじめそういうストーカーを待ち伏せさせておく。

「視」のところでも書いたが、彼らは自分たちが付きまとっていることを私に「知らしめ」、私にいやな思いをさせるために行動しているのだから、そのパフォーマンスは大げさになることが多い。それが最も効果的だからだ。

だから露骨にやる場合は、大声・甲高い声・抑揚を強調したしゃべり方・笑い声を多用したものとなる。

Case2(とにかくしゃべる2)

通勤電車内で周囲を気にせずべらべらしゃべる人間に出くわすことは、これも絶対にないとはいえないが、そう多くはないだろう。

しかし私の場合は異なる。毎日、どの車両に乗っても、必ず遠慮なく大声でしゃべる数人がそばにいる。また、ケイタイでしゃべる奴、あるいはちょっと変わった着信音を大きな音で鳴らす奴、これらは私に向けて用意した者たちである。

現在私は埼玉県の桶川から東京の新橋に通っている。桶川に引っ越した当初一週間くらいは、平日でもかなりの確立で座れるくらいの乗車率だった。

しかし現在はすし詰めである。単純に考えれば、増加分は創価信者ということになる。だから、電車内がいくら異様な光景であっても、大部分の乗客は了解済みということだ。

歩いていてもしゃべる奴が寄ってくる。一人ならケイタイで、または独り言をつぶやきながら、数人なら会話を装いながら。

Case3(物流の台車)

 駅構内ならば、物流業者が台車で私に近づき、視覚障害者用の突起に車をまたがせて騒音を出す。屋外ならば、業者のトラックやバンが待ち伏せしており、私が通るときを狙って荷物や台車を乱暴に地面に落とす。

Case4(建築業者)

 私が通るときを狙って工事を始める。

どこを通るのかわからないにもかかわらず、そんなことができるのかと思われるかもしれない。しかし、私に対してはそのくらい気合が入っている。すなわち、ある日私が出歩くと想定した街において、かなり広い範囲でストーカーを用意している。無駄になる分も含めて用意しているのである。

Case5(スーパーなど小売の店員)

 私が通るときを狙って、ダンボールの封を切る、テープをはがすなど、これも何でもよいのだが、とにかく私の目に付くこと、耳に障ることをやる。

Case6(館内、構内放送を利用したもの)

 鉄道ならば、私が車両に乗っているとき、ホームに立っているとき、ホームを歩いているとき、私に近いスピーカーのボリュームを上げて放送する。また、特に必要もないことを長々と放送する。

 JRが絡んでいることになる。この他にも、車両で冬の時期に私に冷風を浴びせるとか、乱暴に運転する(急ブレーキを頻繁にかける)とか、電車を遅らせることまでやる。

(もちろんJRに問うたならば、彼らはそんなことわざとはしないというだろう。)

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5-2 無間地獄とは何か  外で(総論・視)

(総論)

 人間は本能的に他人に対する警戒心を有する。集団ストーキング行為は、ターゲットの本能を刺激し続けることにより、静寂・安静を奪い、心身を消耗させることを狙った極めて悪質な組織的行為である。

 以下では、五感(視・聴・嗅・味・触)別に事例を挙げてみる。

(視覚のポイント)

 とにかく私の視界に動くものを入れようとする

イ 視界に入ってくる(つきまとい、あるいは待ち伏せ)

ロ 必要以上に近づく(人間が本能的に持つ他人に対する距離感よりも近づく)

 通常人間は、他人とすれ違う時でも、電車や街中で立っている時でも、無意識のうちに他人と一定の距離を保とうとしている。それ以上に近づく人間がいると「何?」と本能的に察知するものである。その距離感をわざと破って近づくこと。(こういうことはハプニングとしては十分にありうることである。しかし、ハプニングであって、通常ではない。毎日何人もそういう人間に出くわすということは、なんらかの意図が働いていると考えるのがとうぜん自然であろう。)

ハ 挙動不審の一歩手前のような動きをする

 手を小刻みに動かす、足を引きずる、きょろきょろ頭を動かすなど、バリエーションは多数ある。絶対にないとはいえないが、そういう動きをする人間に出くわすことは確率的に低いであろう動きをする。無関係な一般人はそのような人間を注視しないが、日々ストーキング行為を受けている人間ならすぐにわかる。そしてターゲットにわからせることが彼らの目的である。

二 すこし目立つ服装をする(全員ではなく、そういう人間を何人か配置する)

 これも絶対にないとはいえないが、というやつである。原色のきつい色の服やカバンを着用する、極端に汚らしい格好をする、ズボンをずり下ろす、片足だけめくり上げるなど、これもバリエーションはいくらでも作れる。

 また、ちょっと変わったロゴが入った服もたまに見かける。そのロゴの内容が私に関わるものならば完璧である。例えば私の場合ならば、

「第六天魔王」(「池田大作の人格」に登場する仏教上の神)

Cola」(私は引きこもり時代アイコラを収集していた)

「やればできる子やねん」(私のこと?)

イは必要条件。これとロ~二の組み合わせでストーキングを行う。

以下実例を挙げる。

Case1(電車で座っている場合)

 例えば、私が電車の長いすに座って本を読む。私の視界は目の前の書物を中心にその周辺に及ぶ。両隣の手や膝はもちろん、さらにその隣の手・膝も見える。前に立つ人間の下半身も見える。

 私が本を読み始めると、視界の中にいるストーカー(の一人)が、その指あるいは手もしくは足を小刻みに動かす。そうやって私の気を散らせる。

Case2(電車で立っている場合)

 例えば、私が電車で立っている。私の視界には左右200度くらいの光景が入ってくるだろう。

 するとストーカーが私に近づき、視界に入ってくる(横や斜め前が多い)。

 そして私の方に体を向ける。普通の人なら「何だろう」と注意を向けるだろう。その人間の視線を見ると、私は見ていない(アリバイ作り)。別のものを見ているふりをしている。そうやって私の気を散らせる。

Case3(車窓)

 例えば、私が通勤時に電車の窓から外の景色を見ている。

 するとストーカーが自転車あるいは自動車を飛ばして、電車と平行に走る。

 そうすることにより、私が見る車窓の景色には創価ストーカーが入り込むことになる。数秒の猶予も与えまいとする、まさにストーカーである。

Case4(駅のホーム)

 例えば、私が電車の窓から外を見ており、途中の駅に着いた。あるいは、駅のホームで電車の到着を待っている。そのとき私の視線は隣のホームにある。

 するとストーカーが私の視線とピタリと合うようにそのホームに現れる。

 たいてい、そのストーカーはお決まりの大きなマスクをしていたり、ケイタイを凝視していたり、おかしな体の動きをする。そうやって私に安静を与えまいとする。

Case5(ターゲットのしぐさの物まねをする)

 彼らは常に私を観察しており、私のちょっとした体の動き、しゃべり方、歩く道筋、好きな食べ物・音楽、興味のある話題など細かくチェックしている。

彼らは、私の行くところ、見るもの、聞くものすべてについて、自分たちがつきまとっていることをターゲットである私に「知らしめる」ためにこれらを使う。

ここでは「私のちょっとした体の動き」について解説する。

私は頭や顔をよく触る癖がある。そして、彼らは私と同じようなしぐさをするストーカーを何人か用意する。

たとえば私が歩いている場合ならば、ぶつかりそうに向かってくるストーカー、携帯でしゃべりながら寄って来るストーカー、台車で騒音を立てるストーカーなどにまじって、私が視線を向けた先で頭や顔をかくストーカーがいる。

電車で立っている場合ならば、目の前(や斜め前)で座っているストーカーが私が目線を落とした瞬間に顔をかく。

駅構内で、私が階段を踏み外し転びそうになったならば、後日階段で転びそうなふりをするストーカーを用意する。

仕事場で、私がある日元気なく「おはようございます」とあいさつしたなら、後日それと同じトーンであいさつするストーカーを用意する。

彼らのしぐさは何をやってもそうだが、声も身振りも手振りも歩き方も大げさで芝居がかっている。それは私に付きまとっていることを「知らしめる」ためだからどうしてもそうなる。自然な感じにすれば効果が落ちるからだ。

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5-1 無間地獄とは何か  序

(無間地獄の定義)

 ターゲットに対して「無間」すなわち四六時中地獄のような嫌がらせを与える、創価学会構成員による行動。集団ストーキング行為

(はじめに)

 これから、創価学会構成員による集団ストーキング行為のさまざまな実例を挙げることにします。

 彼らは私に付きまとい始めて以来、手を替え品を替えいろいろなことをやってきましたが、基本的なところは変わっていません。

 できるだけ短くいうと、「そばによってくる」「騒音を立てる」「進路を妨害する」というものです。

 それは人間の五感に作用し、人間が本来有する他人に対する警戒心を最大限悪用する、非常に陰湿かつ悪質な手法です。

 これを多数の人員をかけて、しかも私以外の一般人には気づかれないように行うのが彼らの任務です。

 これから記す具体的事例はあくまで例示として読んでいただければと思います。彼らは自分たちの犯罪を見えにくくするために常にやり方を変えてきており、現在レポートの元となるメモを書いている段階でもすでにその兆候が見られます(私の文章はメモの段階から彼らに見られているようなので)。

 ただ、やはり基本的なところは変わっていないと私は見ます。細かいやり方を変えてもターゲットになればわかる。わからなければそれは嫌がらせにはなりえない。ならば、分析・描写は可能だということです。

 具体的事例から、彼らの持つ根本的性質をつかんでいただければと思っています。彼らの手法は、人間というものがここまで醜くなれるものだということを示すものでもあります。そしてその醜さは、これらの手法を考え出し実行を指揮している創価学会指導者の人格を表すものに他なりません。

(目次)

5-1 序

5-2 外で(総論・視)

5-3 外で(聴)

5-4 外で(嗅・味)

5-5 外で(触)

5-6 外で(その他)

5-7 自宅で

5-8 評価(1)

5-9 評価(2)

5-10 評価(3)

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