10 外国人参政権が日本を救う(李小牧 ニューズウィークコラム)を読んで 5

(後記)

 私はディベートという競技、教育手法が嫌いだ。

 競技ディベートの本質は、「説得力を競い合う競技である」点、「主題と立場を参加者でなく主催者が決定する」点にある。すなわち、純粋に説得力のみを競い合う競技なのである。実際参加者は、矛盾するどちらの立場に立っても相手を負かす意気込みで望むのであり、主張内容(立場)へのこだわりなどは持ちようがない。もしそんなこだわりを持つならば、自分の主義主張に反する立場で競技することを強いられた場合、負けることになるからである。

 私に言わせれば、自分が立つ立ち位置とは、自分にとっての真実であり正義である。これこそが重要なのである。説得力を磨いて相手に勝つことは重要だが、それは真実・正義のためである。真実・正義こそが説得力を磨く動機となるのだ。

 したがって、外国人参政権に賛成か反対か立場を決められない競技というのはくだらなくてやってられない。そんなことを続けていると人間が腐ると考える。

 昔、飲み屋で同僚に話したことがある。

私「自分は弁護士には向いてないと思っている。もし、凶悪犯人の弁護をやらざるを得ないことになったら、裁判官にこう言いかねないからさ。

『煮るなり焼くなり好きにしてください。死刑でいいです』」

 むろんこれは冗談である。私が実際にこういう立場に立って、裁判官に上のようなセリフを言う勇気はない。

「被告は強く反省しています。更生の余地があります。情状酌量をお願いします」

 自分が機械人間になったつもりで、こういう決まり文句を無難に言いこなすだろう。

 世の中には様々な論点があって、はっきりとした立場を決めずらいものや、私個人にとってはどうでもよいものもある。その最初の問題意識を主催者に委ねる点も、私がディベートが嫌いな理由の一つである。

 説得力を磨きたい、という動機自体も嫌いなのだが、ならば学問の一つでもやればよいのだ。学問は真理を追及するものであり、自分の側に真理があるならば、説得力は後からついてくるものと信じる。

 新聞広告にはいろんな新刊本のコピーが載っているが、近年安易なハウツー本が多い。「論理的に相手を言い負かす方法」みたいな。

 こういうハウツー本と競技ディベートには同じにおいを感じるのだ。ハウツー=説得力=手段、すなわち手段至上主義ということである。

 私にとって譲れない論点とは、一方に真実・正義があることが明確だと自分が感じる論点である。そして、何が正義かというのは感覚的なものであり、直感的に分かるものである。

 ただ、他人の主張を読んで「うそつきやろうが」では通用しない(聞いてもらえない)ので、反論を書く場合は、自分の不快の原因を掘り下げ、解明し、言葉に変換する作業が必要になる。

 真実・正義がない方の理由付けには必ず無理・矛盾があり、それは必ず解明できるものと信じる。

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10 外国人参政権が日本を救う(李小牧 ニューズウィークコラム)を読んで 4

4 一票を求める動機

 リー氏は在日外国人について難題が山積していると主張する。その代表例として次の2点を挙げている。

1)加入義務があるのに25年続けて住まないと受け取ることができない年金制度

2)在日外国人の子どもの不就学

1)これについては特別大きな不当性は感じられない。理解できるのは、25年連続ではなく、トータル25年にしろという点(もし彼がそういう意図ならば)くらいだろうか。要するに、年金の受給要件を緩和しろということなのだろう。

2)子どもを小中学校にも行かせられない外国人というのは、経済的に困窮しているということなのだろう。経済的理由で日本に来て(そう考えて間違いなかろう)日本ですら子どもを初級の学校に通わせることができないのなら、本国でなら当然学校にはやらないだろう。

 つまり、この家族の子どもの就学についての現実はなんら変わらないのである。その子どもに日本人の金で学ばせろというのは、おかしな話だろう。

 日本は子ども総出でゴミ拾いをしなければならない国ではないのだし、何らかの職についていれば子どもを初級の学校に行かせられないことはないと考える。

 日系移民の多くは、何の後ろ盾もない厳しい労働環境の中、現地で子どもを上級の学校に進学させている。親の姿勢の違いだと考える。

 これら「難題」の代表例を読んで思うのは、結局「金をくれ」ということである。行政コストを要求しているのである。おれたちがいなければ「やっていけなくなる」という者の本音が「金をくれ」なのだから、日本人にとっては、少なくともそういう人たちがいない方がよりやっていけるだろう。

「参政権のないわれわれの意見はまったく政治に反映されていない」

 これは参政権という表面上から見たもので、実態はそうではない。「通名」という「偽名」の使用が許されている国民の意見はよく反映されているようだ。そうでなければ、日本人が野たれ死んでももらえないほど要件が厳しい生活保護について、外国籍でありながら多数が受給している現実を説明できないだろう。

「民主主義がないのがイヤで日本に来たのに、その日本でも選挙権や被選挙権が認められないのでは悲しすぎる」

 声楽を学ぶためにイタリアに行く、海外協力隊の一員となって途上国に渡る、出国者の自己実現の動機は様々である。日本に来る人々の動機は、ほとんどが経済的理由によるものだろう。

 そして、外国の一票を得るために生まれた国を出るというのは考えにくい理由である。

 たとえ中国のような過度に自由が制約された国の国民であっても、である。表現の自由がないからそれを求めて出国したのならば、それができれば満足のはずである。

 民主主義、選挙権、被選挙権というものは手段にすぎないからだ。それは現状に大きな不満がある場合にそれを変える手段なのだが、その現状とは、「入国後の」現状であるはずである。しかも、個人の一票のみでは何も動かすことができないのが政治の世界である。日本における投票率の低さはその無力感の現れである。

 少なくとも「出国の」動機にはなりえないのである。自己実現の動機としてあいまいで(手段にすぎない)、それが明確になるとしても、それは入国後の事情だからである。

 百歩譲って彼の側に立つとしても、それならば外国人参政権が認められている国へ出国すればよかったはずである。外国人が外国籍のまま、ある国の参政権をもらえると期待してどこの国でも行くという発想がそもそもおかしいのだ。

 こういう嘘くさい部分をすべてないものとしてみてあげるとしよう。日本に来てから分かる不満というのもいろいろあるだろう。日本に来てから不遇な同胞のために立ち上がり、政治を志したのだとしよう。ならば彼は「子ども」とか他者を思いやるような人間なのだろうか。

 そうではないと私は見る。もし彼がそういう人間ならば、まず祖国中国に置き去りにした膨大な数の不幸な人たちに思いをはせるだろうからである。

歌舞伎町で遊んでいる暇などないはずである。中国の国政を変えるために立ち上がるべきだろう。

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10 外国人参政権が日本を救う(李小牧 ニューズウィークコラム)を読んで 3

3 中国共産党のメリット

「中国共産党が例えば東北や九州の町村政治に手を突っ込んで、何のメリットがあるというのか」

 地方参政権の「地方」とは、「田舎」の意味ではない。東京も大阪も「地方」である。ならば、リー氏の言い分によると、都会の政治ならばメリットがあると暗に認めていることになる。

 こんな風に考えなくても、地方でも中央でも、政治とは金の配分を決定する権限を持つことであり、だからこそ、古来よりあらゆる世界で汚職が絶えないのである。広大な領土を有しながら複数の周辺国との間で領土紛争を抱え、日本とも尖閣諸島を巡って緊張関係にある中国が、そして資源開発などでしばしば強引なアクションを試みる中国政府が、地方政治であっても興味を持たないなどということはありえない。韓国政府でも同様、それ以外の政府でも同様である。金に興味のない国家などない。

 つまり彼は二重の意味で嘘をついている。

 さらに、彼はこの前に「1つの自治体が乗っ取られてしまうというが、まったくでたらめだ」と述べている。その理由として中国政府にメリットがない(だから動機がない)といっているのだが、上記のように、中国政府にメリットが大ありならば、「乗っ取られてしまう」ことも十分ありうることになる。

 つまり彼は三重に嘘をついていることになる。

     地方参政権の対象として都市を外している点

     田舎政治であっても中国政府が興味を持つことは明白であるにもかかわらず、メリットがないといっている点

     日本が乗っ取られる可能性を否定している点

この3点についてである。

 私は彼の文章を読んで、隙だらけの嘘くさい主張だと思ったのだが、この部分が一番強くそう思った箇所である。

 制度は変えることができる。今後地方分権が進められれば、地方の権限は国に近づく。また、地方は国の部分を成すのである。複数の地方が乗っ取られてしまえば、結局国政をも変えられてしまうだろう。

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10 外国人参政権が日本を救う(李小牧 ニューズウィークコラム) を読んで 2

2 参政権の対価

 人間何かを得ようとするときに、リスクを負わねばならないことがある。相応の見返りがリスクを負う動機付けとなる。そして、外国人参政権を考える場合、それに相応する対価は存在しない、取引の対象にはなりえない、というのが私の見解だが、リー氏は次のものを挙げている。

1)少子高齢化に伴う優秀な労働力の確保

2)中国政府にものが言いやすくなること(毒ギョーザの事例)

3)外国人犯罪の減少

 だいたい、2)3)については、おたく(中国)がもたらした害悪の後始末だろう、これが参政権を差し出す日本人の「メリット」とはお粗末なものである、と切り捨てたいが、それでも細かく見ていこう。

1)これは移民賛成派が金科玉条のごとく持ち出す理由づけである。その起源は、バブル時代に企業側が主張しだしたものらしい。バブル期からはかなり年月が経っているから、この論点についてはすでに多くの議論を重ねている。経済学・社会学的専門分野として研究・調査している法人のサイトもある。私が見た法人のサイトは否定的見解だった。

大きな争いがあることは間違いあるまい。にもかかわらず、リー氏が「やっていけない」と断定するのは、争いであることを隠蔽する誘導であると私は見る。

そうでなくても、私はこの理由付けがとても嫌いだ。「俺がいなければやっていけないだろう」「食っていけないだろう」というニュアンスに、他人の不安を煽ってそれに付け込もうとする悪意が見て取れるからだ。「嫌でも」とリー氏は述べているが、正直に暴露してしまっている。それがどんな結末をもたらそうが、ということである。

バブル崩壊以降、少子高齢化を待たずに、人件費削減による国際競争力強化という大きな変動が企業を襲い、労働単価の低い途上国へ工場を移す企業が現れ、日本国内においても賃金が切り下げられてきた。

そして最近の世界的金融危機により、中国の単純労働者ですら多数が職を失う状況にある。

バブルという特殊な時代の予測は現在通用しないのだ。今後日本が少子化したからといって、これ以上移民が必要になるという見通しは立たない。

「少子高齢化」といわれると、漠然とした不安感に駆られるものだが、そこに付け込まれる隙があると考える。

 外国人、特に中国人・朝鮮人・韓国人が日本のために何かするなどと期待しないほうがよい。ありえないといってもよい。税収についても、豊かでない人々を抱えることは行政コストの方が大きく、そのつけは結局日本人に回ってくる。異なる民族を無理やりくっつけてもいずれ分裂してしまうのが現代史の趨勢である。ソ連もチェコスロバキアもユーゴもそうである。

 本当にいざというときにものをいうのは土地である。そこで作物を植えればやってはいける。その場所を他者に占有されてしまえば、それも不可能になる。土地と意思決定権は生命線なのだ。

「単純労働者だけではない」

 どさくさにまぎれてという感じである。おいしい職場も奪ってやろうととるのは、あまりにも意地悪すぎる見方だろうか。研究職もホワイトカラーも、いつの時代でも難関だし(バブルの一時のみ新入社員争奪戦みたいなものがあったが)、少子化になっても変わらないだろう。

「心の広い国」

「より優秀な外国人が日本を選んでくれる」

 優秀な外国人とはどういう外国人か。「優秀」ということは、「狭き」門をくぐれる者を指すのだろう。ならば、間口が広い必要はあるまい。むしろこういう人たちの関心は、そこが自分の能力を生かせる場所か否かにあり、ろくでなしが多く入ってきて自分も同類と見なされることの方を危惧するものだ。

 ここでいう「心の広い国」とは、単に無防備な国なのであって、ろくでなしを多数呼び込むだけであり、優秀な人材を導くものではない。まったく逆である。

 近年、大学受験校の中で、合格実績を上げるために留学生を青田刈りして訓練しているところがあるらしいが、高校陸上部のマラソン選手同様、限定枠を設けた刺激剤程度にしてもらいたいものである。

 一から外国語を学んでそこの一流大学に合格するのはたいしたもので、そういう「個人」を無下に否定したくはないが、それでも国の政策は国民の安全、リスク管理を最優先させるべきである。特に理工系は国家戦略上重要な技術情報を扱っているのである。

(中国人というのは、大学入試で「外国である」東大に入れるような人材が結構いるにもかかわらず、ノーベル賞を取れないというのはやはり不思議である。詰め込み競争至上主義が必ずしも斬新な発想を生み出すものではないということだろう。)

2)普通に考えれば、対立当事国の国民が政治に関与する度合いが高まるほど、相手の言いなりになる可能性が高まるはずである。

 あるいは、自分も健康を害されるおそれがあるからということだろうか。在日中国人がものを言ったところで、中国共産党はまったく意に介さないだろう。自国国民に対してすら平気で銃を向ける政府である。文化大革命以降の事実をみれば明らかだろう。

 どちらにしろ、日本政府がきちんと対応すればよいだけのことである。

3)「かゆいところに手が届く」とは何か。これもよくわからないが、まず中華人民共和国で実践してもらいたい。日本よりもずっと劣悪な状態らしいが、「同じ中国人」ならば犯罪を減らせるのではないか。

 さらに、チベット人もウイグル人も「同じ中国人」と考えるならば、彼らに対する弾圧・虐殺もやめてあげればよいのではないか。

 リー氏はまず中国政府にアドバイスを送るべきである。

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10 外国人参政権が日本を救う(李小牧 ニューズウィークコラム) を読んで 1

1 偽善と防衛

 子供のけんかで、一方が相手の悪口を言いまくった上で「泣くぞ、泣くぞ、ほら泣く」と言うと、当初はまったく弱気なそぶりを見せなかった相手の子供が泣いてしまう、という場面は、多くの人が経験していると思う。

 集団ストーカーが私に投げる言葉のほとんどすべてはこれと同じ意味づけのものである。これは「砲弾としての言葉」である。それは、私の一面を過度に強調したものであったり、あるいは全くのでたらめである場合もある。内容はどうでもよいのだ。とにかくマイナス思考に心理誘導しようとする点で徹底している。

 これはたぶん洗脳の手法なのだろう。たとえば自己啓発セミナー(悪質なものはカルト宗教と重なる)について調べてみると、「身体的・精神的苦痛を与えることにより、個人のこれまでの信念を崩壊させ、虚脱感から逃れようとする個人に新たな信念や情報を注入する」具体的手法についての情報が得られる。

 しかしまれに、ストーカーが「砲弾としての言葉」でない言葉を私に投げることがある。議論をふっかけるような言葉である。ここで土台に乗せるのは、

「偽善だろ」というものである。最近私に投げた言葉である。

 これは、悪事をやっている者が、それを非難する者に対して発する決まり文句のような言葉である。簡単で便利のよい、条件反射的な言葉である。こういう安易な自己正当化が一般的に通用しないことは彼ら(カルトの指導層)も分かっているものと考える。実際、創価学会系の出版物の見出しは心に響かない美辞麗句のオンパレードで、自分たちが裏で何をやっているかとか、それを正当化しようとする議論などは一切みられない(まあ当然だわな、実態がここまでひどいと。)。

 ここで私は、この言葉にまともに答えることをしてみる。

 私の主張はこうだ。外国人参政権を認めるべきではない。これは議論の余地がないほど明らかである。預金を家の外に置いて寝るより無防備だ。強盗に金をやるようなものだ。

 私は単に自分を守ろうとしているだけである。そのために生活の場である日本国を守り、コミュニティの構成員たる他の日本人をも守れといっているのだ。これは単なる防衛である。善といわれるほどのものは何もないし、よって偽りもない。

 防衛というためには、それなりの要件が必要である。たとえばあるサイトの記事で「日本と北朝鮮は交戦状態にあるのだから拉致はやむをえなかった」という内容の記述があった。ここには防衛とは書いていなかったが、そうとれる内容である。しかしこれは防衛ではない。国際法上も正当化できない。身代金誘拐行為に過ぎないのだ。

 こんなこと法律学など知らなくても、誰でも直感的に理解できることである。拉致に関して北朝鮮側に立つ第三国など存在しないし、北朝鮮自体首脳の関与を否定しているのである。他国に潜入して、そこで普通に暮らしている民間人を無理矢理引っ張っていくことを「やむをえなかった」など、「アホか」で片づけることができる言い分である。

 話はそれるが、このサイトから別の記事内容を引用する。このサイトは、他者のブログ記事からの比較的長文の引用の後で、管理人の意見を載せる構成をとっているが、最近引用記事中におかしなものが含まれている。「拉致はやむをえなかった」というのもその一つである。最近のものを挙げる。

「二世議員を悪く言う人は多い。しかし、そうした人たちは二世議員の苦労を推し量る想像力に欠けているのではないか。庶民にはエリート達の苦労は理解できない。卑しい嫉妬の感情に駆られて非難しているに過ぎない。」

 これについてはここでは論評しない。これに続いて、

「世襲政治家として大成功を収めることができるのは、小泉純一郎や金正日のような『紛れもない天才』でなければならないようだ。」

 これについて論じる。

「~は天才である」と記して何の説明もない場合、それが当然のことという共通理解があればすんなりと通る(違和感無く読み進める)。しかし、ここは「アインシュタインは天才である」といっているのではない。政治的天才とは何を指すのか、大成功とはどういう状態をいうのか、なぜこの両者を天才とまで評価するのかについての理由付けがなければ、「え?」「は?」と感じるだけである。

 前者は近年特に評判を落とした政治家である。その結果がこの間の衆院選の政権交代である。後者は、彼の本国や日本あるいは韓国で北朝鮮コミュニティの教育を受けた者以外にとっては、世界的に圧倒的に評判が悪い政治家である。自国の国民すら飢え死にさせているのである。

 小泉の場合、郵政選挙で大勝したことを評価してカリスマ視する説明方法が考えられる。私なら「詐欺的」という修飾語をつけるが。少なくとも何らかの説明が必要だろう。

 そして金正日の場合、私には彼を天才と評価する理由付けを思いつくことができない。他の人にとってもそうだろう。だからこそ、この人の場合はいっそう注釈が必要なはずである。この一般的に意外な見方についての書き手の考え方が知りたいのだ。

 でも何の説明もない。ならばこの記事は何の信用性もないくだらないものとして片づけられるのが当然だろう。

 そして、金正日を無条件に英雄視する者について、私は本国、韓国あるいは日本で洗脳教育を受けた者以外には考えられないし、こういう推測の仕方は常識の範囲内として多くの賛同を得られると思う。

 さらに話をそらす。私はある英単語の本を購入した。この本は語源を中心に英単語を解説したもので、著者(アメリカ人)と発行者(日本人)の対談という形式をとっている。そこでの日本人の一言。

「日本語は語尾に活用がぶら下がることが多いので、単語の切れ目がわかりづらくて、分かち書きが成立しにくい言語と言えます。日本語と同じ文法構造を持つ韓国語はすでに分かち書きの一般化を達成していますが、わが国語は幼児向きの絵本でしか分かち書きを達成していません。」

 私はこういう文章を読むと、私が置かれている現状から、どうしても次のような疑問を感じてしまう。

「英語の勉強に買ったのに、日本語以外になぜ韓国語が出てくるの?」

「なぜ韓国語を持ち上げるの? そういう風に言われたって、自分は韓国語を知らないから分からない」

「日本人にとって韓国という国は劣等感を感じる国ではない。通常は意識すらしない。両者を比較したがるのは韓国人的発想では?」

 こういう無用な推測をしなければならないのは「通名」という「偽名」が認められているからである。自分の名をどのようにでも決めることができるネット上のブログならばどうしようもないが、世間に広く顔を出す政治家・マスコミ・芸能人を筆頭に、一般人も、自分の名を名乗って活動する場合、ちゃんと自分の素性は明らかにすべきである。

 生粋の日本人を思わせる名前で「今韓流が大人気です」というのは反則だろう。「あなたの息子です。金を送ってくれ」というニセの電話と同じである。

 とはいっても、私に絡む集団を観察してきて思うのは、彼ら(朝鮮半島系であるかどうかは推測の段階)は反則を反則とすら思わない性質を持つということである。ここが埋めようのない溝なのだ。以前の記事で「翻訳可能性がない」「論外のやつら」と論じた点である。こういうやつらが国を牛耳るようになると「悪化が良貨を駆逐する」ことになる。

 ここでは外国人参政権が主要テーマなので、中国・北朝鮮・韓国が論じる対象になるのだが、この3国におけるノーベル賞(科学分野)の受賞者はゼロである(中国出身者の4名はすべて外国籍)。

 北朝鮮はそもそも社会の基礎条件が成っていない(食えない)国なので、発想を要請する段階にはない。ノーベル賞というのはハードルが高すぎるのだが、貧乏人(社会コストがかかる)かつ反日テロリズム教育を実践している点だけをみても、日本の政治的意思決定権を与えるなど論外の話だ。

 韓国は北朝鮮と同じ民族であり、共通の民族性を有する。

 中国は歴史ある古代先進国で人口大国でありながらこの数字というのは驚きである。同じ共産主義大国で分解したソ連や、同じアジアの人口大国インドでも相当数出ているにもかかわらずである。社会システムの深い部分、もしくは民族性の欠陥と考えるべきだろう。ここも反日教育を施しており、日本との領土紛争も抱えている。

 多数民主主義を採用する日本において、人口約10倍の国の国民に参政権を与える(潜在的にはそうである)など、自殺行為だというのは小学生でもわかりそうなことである。

 話を偽善に戻そう。

 私の主張は、一般的人間の性質、世界の現状を見据えた、極めて現実的なものである。私の感覚で人間を分類すると、次のようになる。

 a 自分の身を削ってでも他人や公益に尽くす偉人

 b 自分がとても裕福なため、他人にも施す善人

 c 悪人・極悪人

 d 圧力、権力になびく一般人

 e 圧力、権力になびかない一般人

その割合はこんなところだろうか。

 a 極めて希少

 b 希少

 c 少数だが、bよりははるかに多い

 d 多数派の中の多数派

 e 多数派の中の少数派

 そして世界では、食うに事欠く人が多数を占める。

 こう考えれば、世界の現状がなかなか良くならないのも理解できよう。

 そして、一般的人間に望めることは、その人の生活・利益を確保した上で、それでも余裕がある場合は他人に対する支援も可能である、これが精一杯だろうということである。私もそうである。

私は個人的に外国人嫌いなわけではない。ただしそれは相手が「個人」である場合に限られる。「わが同胞」の権益ばかり考える集団は嫌いである。日本人についてもそうである。日本の政界のバックにいる経営者の団体、公務員の団体、医師の団体、教職員の団体、いずれも嫌いである。

「外国人との共存」。美しい言葉である。善である。

 しかし、日本が多数民主主義を採用し、人間の本質が集団に寄り添って権益を拡大するものである以上、日本人の利益を損なわないよう警戒を怠らないことは当然である。そのためには意思決定権は保持しなければならない。これは絶対である。日本の国民代表が、日本人の国益に明白に反する法案を通すことは許されない。

 もし人口圧力に勝る中国人に参政権を与えるならば、日本人は日本にいながらにして中国におけるチベット人・ウイグル人の立場に置かれる危険性を持つことになる。意思決定権を中国人が握るということは、中国人にとって外国人たる日本人との共存を破棄する、二級市民に貶めることも可能だということである。意思決定権を他人に委ねるということはそういうことである。

 政府の意思を他者(ここでは外国人)に委ねるということは絶対にやってはならない危険である。それが限定的なもの(地方)であるとしても、である。これは冒険というリスクとは質が異なるものである。自分が決めることができなければ自分も他人も助けることはできなくなる。これは基本中の基本であり、どんな対価を相手が持ち出してきても乗ってはならない取引である。

 ここで、偽善とはリーシャム氏の主張を指すという私の見方を表明し、彼の文章を検証していこうと思う。

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9 朝日新聞8/8記事「国旗・国歌法成立10年 踏み絵としての斉唱」を読んで

(記事を書くきっかけ)

1 私はホテル清掃のアルバイトで生計を立てている。清掃時、多くの客室には新聞が残されており、それはゴミとして捨てられるので、私はその中から朝刊と前日の夕刊を1部ずつ持ち帰る事にしている。優先順位は、読売、なければ朝日・産経・東京のいずれかを探す(土曜日は朝日のbeも加える)。日経が最も多く、朝日・読売もほとんどの日はある。

 これをやりだした当初、会社側が「当日の新聞は持ち帰ってはならない」という嫌がらせルールを作ろうとしたが、最近は言ってこない。ただし、日によっては、読売が1部も残っていなかったり、朝日のbeが全て抜き取られていたりする場合もある。そういうときは、ストーカー組織の何らかの意図があるものと考えている。抜き取ったものをみせたくないのか、次の順位のものを見せたいのか、ということである。

 8月8日は読売・産経・東京が消えていた。というわけで、朝日を持ち帰った。

2 記事中の「日本聖公会」は、私の出身大学である立教大学の設立母体である。

3 記事中の人物の心情を表現するために、遠藤周作の小説を引用して重ね合わせているが、私は非常にわざとらしさを感じた。

(論点(記事の引用))

1「君が代の歌詞は天皇制をたたえる内容であり、入学・卒業を祝う場にはそぐわないと思っている。有無を言わせずに強いられると、まるで天皇を『神』とする宗教のように感じてしまう。君が代のピアノ演奏を命じられることは棄教を迫られるのに等しく、思想・良心の自由とともに、いわば信教の自由の問題にもかかわる問題という。」

2「校長の職務命令などが思想・良心の自由を侵すと見るかどうかは、裁判官によっても判断の分かれる問題ではある。だが命令に痛みを感じる者がわずかでもいる限り、その心に思いを巡らすことが民主主義には決定的に大切であるはずだ。」

(私の意見)

 憲法を読めば分かるが、日本国は「天皇を『神』とする宗教」を強制する国体ではない。思想・良心の自由、信仰の自由ともに認められている。

 実際、教祖が自分のことを神とか国父とか言っているカルト教も野放しだし、宗教法人として税制上優遇すらされている。また、日本人を何十人(か何百人)も誘拐し、現在も監禁している国の独裁者をたたえる学校法人も存在が許されている。あまりにも寛容である。自分(国家)の身くらい守れよと言いたいくらいである。

 ただし、「まるで天皇を『神』とする宗教のように感じてしまう」のはこの人(記事に登場するキリスト教信徒)の自由だ。それが思想・良心の自由だからである。

 しかし、国家斉唱をしない自由というのは、思想・良心の自由を超える。すなわち、この自由権の範囲外であると私は考える。

 国歌斉唱についての私見を述べる。

 国歌斉唱とは「日本国で生活する以上、この社会・この国の国益にかなうよう行動するという決意表明の儀式」と解する。そしてその行動とは、反日的、反社会的行動をしてはならないという程度のもの(不作為義務)と解する。

 簡単な事である。例えばトヨタの入社面接で「自分は入社後トヨタで得た技術をニッサンに横流しすることもいといません」という学生がいて、こんな人間が採用されるはずないだろう。

 国歌斉唱をしないということは、職務について、反日的・反社会的行動をしないという誓いを立てることを拒否することであるから、公務員ならば、自ら公務員失格を宣言するようなものである。したがって、何らかの処分を受けても道理に反しないだろう。

 思想・良心の自由は他の自由権と異なり、絶対的な存在である。この人は天皇を嫌う自由もあれば、思想的に反日である自由すらある。そう表明してもかまわない(表現の自由)。しかし、公務員として反日教育をする自由はないのだ。

 反日の表明をしてもかまわないと言った。また、国家斉唱の拒否は、思想的に反日であることの表明であると私は解する。そして、国家斉唱を拒否してもかまわないのである。日本はその行為によって監獄にぶち込まれるような国ではない。ただし、公務員・教師失格の烙印を押されることもまた仕方あるまい、ということである。

「踏み絵」というと、拒否すると殺されかねないイメージだが、国家斉唱拒否による処分は、公務員・教師に不適格な人間に不適格であると警告する程度のものである。たとえとして大袈裟だろう。

 国益とは何かについては意見が分かれるところだろう。たとえば、近現代史に関して、中国・韓国・北朝鮮のように、これまで自国政府がやってきた事は何が何でも悪くなく、悪いのは日本だと教えること、それが史実に反するとしても国益にかなうという考え方も、考え方としてはありうる(私は反対である。真実を直視しようとしないからノーベル賞の一つも…、といいたくなる。)。

 しかし、公務員・教師が国益に従わないと宣言するなら話しになるまい。

 少数派の配慮をしろという意見について。当然の事だが、内容による。たとえば、集団暴行、幼児虐待、強姦を認めるべきという少数派がいるとして、認められるはずはないだろう。

 公務員・教師が公の場で国益に従うという誓いを拒否することも同様と私は解する。

 もちろん、思想・良心の自由の範囲内ならば、少数派多数派にかかわらず、絶対に認められなければならない。しかし、上記のように、この事案は範囲外である。

 以上は反論で、ここからはこの記事を作り出した意思主体についての私の推論を述べる。

 この意思主体は、「天皇を神とする宗教 vs キリスト教」という対立軸を設定している。

 これは無理矢理である。なぜなら、1で述べたように、日本の国体は宗教に関して寛容だからである。

 また、「天皇制をたたえる」ことを「踏み絵」、すなわちキリストを踏みつけることと同視している。これも無理なレトリックである。キリスト教はそれほど不寛容なのだろうか(キリスト以外の者をたたえてはいけないの?)。

 思うに、この意思主体は天皇制がよほど嫌いなのだろう。嫌いならば嫌い、国体を変えたいならば変えたいと堂々と言えばよいのにそう言わず、日本聖公会とか皮をかぶせて誘導する。反日といわれても仕方あるまい。

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8-7 社会形成の基盤  追加事例

(序)

「何でもやる」

「何もかも捨ててるからさ」

 ストーカーが最近私に投げた言葉である。「何もかも」とは、自尊心とかプライドのことを指すのだろう。言うまでもないと思うが、カルト信者がこう言うとき、これをよい意味(向上心のあらわれ)として私が解釈することはありえない。集団暴行や蛮行の数々を正当化するつもりもないということである。

 普遍的な美意識をすべて棄て去った者たち、他者を尊重する可能性の全くない者たち、しかもそれを価値観として万人に押し付けようと組織化した集団なのである。

 私が桶川市役所で用事を済ませて帰ろうとすると、役人の一人が急に椅子から立ち上がり、仕事場から通路に飛び出してきて私にぶつかる寸前でかわした。こんな奴どう考えても「頭のおかしい奴」だろう。

 集団ストーカーの手法については過去の記事である程度の概要は書いた。ここでは書き漏らした事例と補足的説明を加えようと思う。

 彼らの手法というのは、ターゲット(仏敵)に物理的・心理的苦痛を絶え間なく与え続けるものである。その目的は、ターゲットの人格を破壊することに他ならない。

 私が普通に歩くことも、コーヒー一杯味わうことも、勉強することも、ゆっくり眠ることも、外の景色を眺めることも許すまいというのである。

 これは私を生きていながら殺すということである。集団ストーキング行為は彼らの用語で「殺し」というらしい(ネット情報)。

 彼らの一連の行為は連携しており、巨大組織がバックにいなければ絶対にできない。その組織は、意思決定者たる極悪人(精神異常者)とそれに盲従する被洗脳者(これも精神異常者)から成ると考えられる。

 気に入らない個人の人格を残虐な手段で破壊する、そのような集団を放置することの行き着く先は社会の破壊である。この集団は思想・宗教と呼べる代物ではない。教祖のキチガイじみた欲望の具現でしかないのだ。

(イ)   顔まね

 2008年2月、郵便事業会社銀座支店にて。私は集配営業課長に今月いっぱいで退職したい意向を伝え、了承を得た。

 それから数日後の出勤最終日、私はいつものように郵便用の自転車に配達物を積みシティセンタービルに向かった。ビルに到着し、正面玄関の回転ドアをくぐると、私はほんの少し感傷的になったのか、そういう表情をした。たぶん遠くを見るような目線の表情である。鏡を見なくてもわかる。

 そしてビル内の配達を終えてビルを出ようとすると、回転ドアの前で待っていたのは私の表情をデフォルメした(誇張してまねをした)顔の中年ストーカーだった。

 こいつらは、私が何を考えているかをいつも気にし、監視し、性的なことを考えればそれを妨害し、法律書を読めばそれも妨害し、インターネットを見ればそれも妨害し、顔を触れば同じように顔を触り、感傷的な顔をすればその顔まねをする。

 ここまでくれば異常である。政治的・経済的に支配したいなどという目的合理性をはるかに超えている。

(ロ)   機器の改造・操作

 機器・機材を改造・操作して嫌がらせを行う手法については、過去の記事でもいくつか取り上げた。シャワー、電車内の冷房などである。こういう機材の改造は彼らの得意とするところらしく、頻繁に行う。

1 桶川図書館の構内放送

 まずボリュームを上げ、電機の雑音(ザッとかガッとかいうもの)の混じったチャイムが鳴る。そして、放送担当の図書館員がマイクを指で2度3度とたたく(ボンボンと)。

 とにかく非常に芸が細かく陰湿でねちっこいのが彼らの特徴である。

2 電車内、駅ホームの放送

 最近はわざとどもったり、テンポを乱したしゃべり方をする。こんな事して何になるの?というような細かいことをひたすら積み重ねて私の気を散らそうとする。

3 ホテルの従業員食堂

 ある時期早めに出勤して、従業員食堂でブログのメモ書きをした。こういうことを続けてやると、すかさず嫌がらせの手が伸びてくる。

 2度目は蒸し風呂のような食堂になっていた。冷房を切ったか暖房に切り替えていたのだろう。私が気にしないようにしてメモ書きを続けていると、厨房の男が「クソっ」と言い放ち、鍋をガンガン叩きだした。

4 公共施設の自販機・水のみ機・コピー機の改造

 自販機・水のみ機は冷房が自動調整されていて(冷蔵庫と同じ)、動作がオンになると「ビーン」と鳴る。その音を増幅させて、近くに座っている私に不快感を与えようとする。コピー機は、誰かが使用しているときに、「ウィーン」というコピー機本来の音に高温を混ぜて、集中力を削ぐもので、北区中央図書館でやってきた(これは1,2回程度)。

5 自宅の家電の改造・操作

冷蔵庫:上記4と同じ要領である。ただ単に不快感を与えるためにも使えるし、勉強・睡眠を妨害するためにも使える。(これは亀有での話で、現在私は冷蔵庫を持っていない)

ラジオ:きれいな音で鳴っていたのが突然雑音混じりになったり、聞こえなくなったり、近くで操作しているのはなんとなくわかる。彼らはただ壊してしまうよりも、こういう変化というか、陰湿な行為自体を好む傾向がある。なぜなら、壊してしまえばそれまでだが、操作できるようにすれば嫌がらせが長続きするからだと私は考える。

 パソコンもはじめはそうだった。時にブラウザが開くのに非常に時間がかかったり、特定のサイトを開くと同じものが何重にもずれて開き読めなくなったり、「電磁波兵器」と打つと何度でも電磁波「平気」と出てくるなど、いろいろとやってきた。それでも一切無視していると、ついには画面を写らなくした(壊した)わけである。

 別の小型ラジオはある日突然音が鳴らなくなった。持ち運びが簡単なものは上記のような嫌がらせがしにくいからなのだろう。

エアコンなど:私の部屋のベランダには、自分の部屋に設置してあるエアコンの室外機の他に、隣の部屋のエアコンの室外機も置いてある。隣にはベランダがなく、建物の構造上仕方ないらしく、これはまあいいとしよう(本当はよくないが、どの階もそうなので合理的な言い逃れは可能である)。

しかし、夏の夜中に私が窓を開けると、隣がエアコンのスイッチを入れる。するとその室外機の熱風が私の部屋に入ってくるのだ。

さらに最近、アパートの隣にある肉屋の水道機材(円柱状のもの)からピーという高温が向けられるようになった。これは音量の調整ができるようで、私が窓を開けると高くしてくる。しかもよくできていて、1階からだとほとんど聞こえない(交通量が多いせいもある)。私は音源を見つけて、1階の不動産屋に相談してみた。不動産屋自体がストーカー組織の一員だというのはわかっているが(詳細は省く)、安眠妨害を放置するわけにもいかない。不動産屋(従業員)によると、肉屋の経営者は不動産屋の社長夫人だそうで、3者で立ち話をしたのだが、のらりくらりとかわされてしまった。(「えっ、聞こえる? みてもらうのに時間がかかるのよね」など。)

(ハ)   電車での会話

 電車内(に限らないが)でうるさくしゃべる嫌がらせについては過去の記事で書いたが、その露骨なバリエーションを紹介する。

 当初は注意したりどなりつけたりしていたが、相手は確信犯であり、人数をかけてやってくるので、熱を入れるだけ自分が消耗するだけだと考え、基本的には無視することにした(この線引きが難しく、体をすり寄せてくるのに絶対に無視し通すというわけにもいかない)。

 どうせ本試験でも邪魔をしてくるだろうから、こういう(うるさい)場所でも法律書を読めるよう訓練してやろうと、読んでいたのだが、ある日、近くでしゃべるストーカーの一方が「やめろ」と強い口調で言ったのだ。ただし、私に向かって言ったのではない(実際はそうだろうが)。しゃべっている2人は口論をしていたわけではない。仲良く、ただうるさくしゃべっていたのだが、その会話の中に、トーンの異なる極めて不自然な一言を入れてきたのである。

 あと、過去の記事で性的妨害について書いたが、ストーカーの会話で、私にそれを連想させようとしていると思われる言葉がしばしば使われる。

「いきたいよう」「いってない」というものである。

 もちろん会話は性的なものではなく、旅行などの話である。

 これは、肉体的虐待(電磁波による性的妨害)を加えた上で、さらに言葉によって精神的に追い込もうという彼らの常套手段である。

(ニ)   私の意図を探り、はぐらかす

 彼らは私の意図を探り、それが実現しないように持っていきたがる。それは異常に細かく、どんな小さなことでも私の意図を妨害しよう、くじこうという病的なまでの(病気だと思うが)執拗さである。私に対する集団ストーキング行為そのものがそうだといえるが、ここでは別の例を挙げてみる。

 たとえば今の職場で、「休みの前日は早めに帰りたい」と私が言うと、「今日は忙しいから残ってくれ」と返す。

 また、「今日残れる人いる?」と聞くので、私が残れるというと、「もうだいじょうぶだから(必要なくなった)」と返す。わざわざ釣った上ではぐらかすのである。

 散髪屋(駅にある1000円の店)では、「髪がばらつくのでなるべくすかないでほしい」というと、別の切り方で髪がまとまらないようにする。翌月、それもしないでくれというと、また別の方法で髪がばらつくようにするのである。

 私は平塚の奥地から脱出した直後、恵比寿ガーデンプレイスで人工池の清掃をしていた。掃除をしていると、たまに溺れたカナブンが浮いているので、拾って草木のところに投げてやるのだが、そうすると、次々と虫を放り込んでくる。放り込むストーカーの姿を見たわけではないが、彼らのこれまでの行動パターン、そして状況の変化から私の身体が「察知する」のである。さらに、私のアパートの階段や廊下にまで死にかけた虫を置いてくる。

 とりあえず彼らに対峙するには、物事にこだわりすぎないこと(部屋のものは壊されるし、意図は次々と妨害されるのだから)、そして非常に難しいが、何があっても動じないことが必須である。そうでないと精神的に潰されてしまう。

(ホ)   時間を浪費させる

1 警察・検察

 2009年1月1日、私は大宮駅で暴行を受け、傷害を負った。治療費は2万円余りかかった。

 同年5月、埼玉地検から通知書が届いた。28日付けのもので、案の定不起訴処分だった。

 まず、たかがけんかの、「不起訴」処分を下すのに約5ヶ月かかったのである。それまでに私が警察に電話で問い合わせると、「担当は席をはずしている」「担当は移動になった」「事件の担当部署が変わった」などといい、一向に進展具合を説明しないので、直接大宮警察に出向くと、「まだ検察に送っていない」である。

 不起訴の通知書が届いた後、担当検事(女性)からの留守電が入っていた。事件について説明したいので直接話したい、という内容だった。

 私が地検に電話すると、「検事は席をはずしている」「検事はしばらく出張で戻らない」と、私に言わせれば居留守を使うのである。いつならいるのかと聞いて、やっと日時を指定したのだが、私のほうが投げてしまった。

 当初は地検の処分を元に、治療費を取り戻すべく調停を視野に入れていたのだが、検事と話したところで処分が覆るとは思えず、調停を申し立てても相手は支払うとはいわないだろう。そもそも組織(創価学会)をバックに、私にダメージを与えるためにやったのだから。自費で裁判までやったとしても、私一人では相手と創価のつながりまでは立証できない。

 私はこの事件だけにエネルギーを費やして潰れるわけにはいかないので、とりあえず保留したのだ。(時効期間は過ぎていないので諦めたとは断言しない)

2 警察

 時期は前後するが、こちら(関東)に出てくる前の話である。以前の記事で、自分またはその周辺で不快な出来事が頻繁に起こったと書いた、その時期である。しかし、まだ創価とか集団ストーカーとかそういう存在に対する明確な意識はなかった。

 実家の最寄り駅は2つある。ひとつは播州赤穂、もうひとつはその東にある坂越である。坂越駅は夕方を過ぎたころ無人駅になる(少なくとも私が高校を出るまでは有人だったのだが、二十数年ぶりに戻ってみると半無人駅になっていた)。ただし、たまに駅員が夜になっても残っていることがある。キセル防止のための抜き打ちのようなものなのだろう。

 実家にいた私は、当時市内に住んでいた妹に悪知恵を伝えた。三宮や神戸から1500円くらいもかけて帰るのはばかばかしいから、最低区間を買えばいい、もし駅員が残っていたなら、その時に清算すればいい、改札を出るまではどこの駅でも清算できるのだから違法ではない、と。

 妹は乗り気でなかった。真面目で正直者である。私は強くそうしろと言った。

 妹は初めてキセルを実行し、警察に捕まった。そのときの状況を後から妹に聞いた。

 無人の改札を出て、自転車置き場に行ったところ、背後から声をかけられた。切符を見せろという。私服警官らしかった。

 駅で乗客一般をチェックしたのではない。キセルの初犯の人間を尾行して狙うなどありえないことである。

 後日、妹は出頭を命じられ、こってりと絞られたらしい。そのときの話も聞いたのだが,女性警官からこんな一言をいわれたという。

「ほんまはこんなことやりたくないんやけどね」

 当時からなんか変な話だと思っていたのだが、今は、これは妹ではなく私の心理的動揺を狙ったものだと確信している。

 妹は窃盗の構成要件を満たし、私はその教唆の構成要件を満たすことは認める。しかし、妹を捕まえた警察の動機が不純なのである。私は、自分の不純な動機が暴かれた恨み節を言っているのではない。法治国家にそぐわない権力の恣意的濫用が行われているといいたいだけである。

 無人駅のキセル乗車についての私見を述べる。

 チェックする駅員がいなくても賃金を支払えという倫理、社会道徳、美徳はあってしかるべきである。しかし、それと社会政策は(関連性はあっても)別物である。社会政策は平均的・一般的人間の性質、および政策が及ぼす効果を基礎につくられねばならない。駅員を終電まで配置しておけばよいだけのことである。おそらく人件費は十分まかなえるだろう(損をしている金額のほうが大きいと思われるから)。

 また、駅員を置かない場合、支払わなければ処罰するのはおかしい。降車時に支払う機会を与えられていないからである。仮に自動清算機があったとしても、それだけでは不十分である。人によるチェックをかいくぐってまでも改札を出てこそ、窃盗の故意は認められるべきだからである。

 本件の場合、キセル乗車防止のためならば、乗客全員をチェックしなければ無意味である。キセル乗車をすれば捕まるという事を一般乗客に見せなければ抑止にならない。

 また、繰り返すが、窃盗の初犯を尾行するなどありえない。尾行する動機がないからである。ということは、つまり、動機は別のところにあるということである。

3 当たり屋・保険会社

 この事例は、私が郵便事業会社をやめて一時実家に帰ったときの話である。(時系列で並べると、2→3→1,4となる)

 平日の昼間に新幹線で帰ったのだが、実家に到着すると、母が開口一番、

「○○(妹。現在兵庫県内の都市に住む)から電話があってね、後ろからぶつけられたんやって」

 妹によると、

     車に乗車中、黒のセルシオに後ろから追突された

     降りてきた男は見るからにヤクザ風の中年男だった

     相手が100%悪いことは明白で、相手もそれを認めている

     相手は車の修理業を営んでいるらしく、自分のところに(妹の車を)預けないかと提案してきたが、妹はそれを断った

     保険会社に連絡はした

とのことだった。

 私は、母の一声を聞いた時点で「きたな」と思った。

 後は保険会社に任せればよいはずである。しかし、それからゴタゴタは続く。妹がいうには、

     保険会社によると、相手と連絡が取れないので、直接交渉してほしいとのこと

     妹が相手に電話をすると、気持ち悪い待ちうけ音楽が流れ(いかにも創価らしい。これは私の感想)、相手は電話を取らない。何度かけても同じ

     保険会社は、弁護士を(妹が)雇って対応すればどうかといっている

 保険会社に全てやらせればよいのである。そのための保険会社である。車の免許を持っている妹や父の方が全く無知なのにも困ったものだが、それに乗じてでたらめを言ってくる保険会社はグル(共犯)だということだろう。

 追突した相手の名前がとても変わっている(めずらしい)というので、見せてもらったのだが、私はこれまでこの苗字も名前も同じものを一度も目にしたことがない、造語ではないかと思えるものだった。(出ないとか出るとかいっている党の、あっという間に交代した元党首のような)

 幸い母が妹に付いて対処してくれたので、私は巻き込まれずにすんだ。というか、そもそもの原因は私なのだが、妹には伝えていない。母が言うには、(妹が)怖がるから真実を話すのはやめておきなさい、とのことだった。

4 役所

 私は2008年2月末日をもって郵便事業会社を退社した。年金については厚生年金から国民年金に移行したが、当面無職なので支払免除申請をした。葛飾区役所のアドバイスに従って書類を提出したのだが、後に却下されてしまうことになる。(平成20年3月から6月分)

「(理由)提出された申請書に所得の状況を明らかにする書類の添付等がされていなかったことから、当該書類の提出を求めたが、指定した期限内にこれに応じず、国民年金保険法に定める免除等の要件に該当するかどうかの確認ができないため。」

 書類はそろっていたが、H10.1.1時点での住所地(年末に東京に出てきたが、まだ転居届を出していなかったので、兵庫県赤穂市)においてゼロ申告(働いていなかったので収入はなかった)をしていなかったため、所得証明になっていなかったらしい。

 上記理由は、2ヶ月ほど前に桶川市役所で確かめたところ判明したものである。私は、亀有→兵庫→平塚→桶川と、数ヶ月の間に点々とする中、事態はまったく好転しないが、とりあえずは落ち着いてきたため、少しは周辺のことに目を配れるようになったということである。

 書類の不備を修正する機会を与えたが、(私が)無視したため、時間切れということらしい。その修正機会を与える書類は亀有の住所に送ったそうだが、その当時私は実家か平塚にいたので読めなかったのだろう。私は役所の転居手続きはした覚えがあるので、たぶんその前に送られたのだと思う。

 何が言いたいのかというと、彼らは日々私に過度なプレッシャーを与え続ける中、私が犯したわずかなミスを突いてくるということである。

 このことを別の事例から考えてみる。

 私は現在ホテル清掃のアルバイトで生計を立てている。現場は汐留だが、会社の本体は信濃町にある。(いわゆる、なんとか系会社というやつである。こうなった経緯については省略する。)

 よって、私の周囲にいる人間は(客の振りをしたストーカーも含めて) すべてキチガイと考えてよい。そして会社は、私の仕事についてはスペシャルメニューを用意している。そもそも私に利益を出すよう期待していない。それどころか、会社の方が私への嫌がらせのために多大な労力を使っている。

 私が仕事をしにくいよう、効率が悪くなるよう、様々な工夫がなされている。その最も露骨な例が「おそろしく汚い部屋」である。ここまで汚す客というのも一年に一人(一組)くらいはいるかもね、というような部屋を月に2度3度と私に与えるのだ。

 これは渋谷の東急セルリアンタワーホテルで同じ仕事をしていたときに経験済みなので、特に驚いたわけではない。ましてや信濃町に雇われたのだから、どんな不合理があってもおかしくはないのだ。

 最近私は、ある「おそろしく汚い」一室を清掃した。部屋の掃除が終わると、キーパーと呼ばれる現場責任者が部屋の状態をチェックする(ちなみに東急ではキャプテンという)。そしてミスを見つけると、別の部屋で仕事を続けている私のところに入ってきて小言を言うのがいつものパターンである。その日は「ソファーのシートカバーのファスナーが開いている」というものだった。確かによく見ると、チャックが開いていて、中のクッションがむき出しになっているのがソファーの隙間から見える。彼は言った。

「本来気付くはずなんですけどね」

 私は、

「本来、ホテルのソファーのチャックを開ける客なんていねえよ」

「本来、ここまで部屋を汚す客なんていねえよ」

という突っ込みは頭の中にとどめたが、さらにこう思った。

 彼を含む組織(創価学会)が、通常の3倍4倍も汚した部屋を私にあてがい、私が時間に追われて仕事に忙殺される中、本来気付くはずのことを気付かないようにさせたのだ、と。

 さらにこのファスナーは壊れていて(誰が壊すんだよ)、私が張り替えることになるのだが、新品のカバーがあるはずの場所に壊れたものばかり置いていたり、指示をくるくる変えたりして、さらに余計な時間を使わせるのである。

 年金の事例はこれと同じ性質のものと考える。カルトが公務に入り込むようになった結果、あらゆる謀略のネットワークを使って、ターゲットの年金をも削ることができるということである。

 私はこの4ヶ月の申請を諦め、次の期間の免除申請をしたのだが、いまだ結果の書類は送られてこない。桶川市役所内の年金担当者は、当初おかしな電話をかけてきた。

「次の分もたぶん却下されると思います。その通知がまもなく届くでしょう」

 決定の確認が取れたわけではないという。なぜ決定前に現場の人間がわかるのだ。しかもその電話から一ヶ月以上経ったが通知は来ない。その間私は何度か市役所に足を運んだのだが、同じ人間がまた矛盾することを言う。

「申請手続きは全く問題ありません。しかし、亀有区役所が、三宅さんの所得の確認ができないといっているんですよ」

 要するにたらい回し、時間の引き延ばしである。私は書類のプロではない。私にミスがあるのなら、それを指摘してくれれば修正するだけのことなのだが、彼らは物事の核心をあえて述べない、はぐらかすのである。(電磁波兵器に関する偽造サイトについてもいえる。ろくな情報がない。だらだらと知識を並べて、原因と解決法については一向に答えないのが彼らのやり方である)

 私に守られるべき私的領域があるように、彼らにも自由がある。しかし、他者を侵害する自由などというものはない。

 カルトの私的領域だからと長年放置した結果、彼らは法人となり、公金を受け、さらに公務を運営するようになった。それがここ数十年の日本のすさみ方に影響を与えていないはずがない。

(その他)

1 豚の鳴き声

ある日の夕方、桶川マイン(桶川駅前にある総合スーパー)で買い物を終えた私は、建物を出て、駐輪スペースに停めてある自分の自転車を探した。

外に出てからずっと、変な音が聞こえる。豚の鳴き声のような音だ。

これまで書いてきたように、私は四六時中付きまとわれているので、音がしたり人が寄ってくるのが普通の状態となっている。だから、そういう日常となってしまった騒音などを、まず直感的に「また創価か」と考える。いや、最近は考えもせず受け流すことがほとんどである。いちいちかまうだけでも消耗するからである。

今回も気にしない方向で、自分の自転車を見つけ、走らせた。

すると、豚の鳴き声が自分に付いてくる。自転車を探しているときは音の出所はわからなかったが、走り出してから見つかった。無視するつもりだったのだが、分かってしまった、というところだ。

豚の鳴き声は、自分の自転車と同じ速度で平行に走る車から発せられていた。ガードレールを挟んで2メートルくらいのすぐ横を走っている。普通の乗用車のサイズで、屋根の上にはスピーカーが取り付けられていた。胴体には「桶川市交通安全…」(正確には忘れた)とあった。市の外郭団体か。

私が気づいて視線を向けると、車は速度を上げて行ってしまった。

2 ハト

 公園のベンチに座って、しばらくすると、ハトが寄ってくる。これはよくある光景である。私も例外ではないが、私の場合、たまに変なハトを見せられる(「見せられる」という意味はたぶん理解していただけると思う)。平塚に住んでいたときの話である。

 何羽かいるハトのうち、2羽のみが特異な動きをしている。1羽が別の1羽を追い掛け回しているのである。私はそれをしばらく目で追っていたのだが、不思議なことに、逃げる1羽と追いかける1羽の距離が全く変化しないのだ。4センチメートルくらいだと記憶しているが、もう突かれそうな距離ながら、ずっと同じ間隔を保って逃げ(追いかけ)つづけている。それはあたかも機械仕掛けのように変化しない。

 さらに驚いたのは、追いかけているほうのハトの容姿だ。見たこともない異形さである。首が異様に太いのだ。しかも2段くらいの輪っかになっている。まるで人間の肥満体のような体つきだ。

 こんなハトいるのか、どこから連れてきたんだ、と当時は考えていたが、今思うに、品種改良ではないかと考える。観賞用の金魚のような。

 「どこまでも続くストーキング」をほのめかすためだけにこんなものをつくったのだとしたら(たぶんそうなのだろう)、悪趣味極まりないただの「改造」である。

3 TSUTAYA

 再び東京に移って最初の住居は亀有だった。そこではレンタルビデオ店の会員になり、週1くらいのペースで映画のDVDを借りた。翌日(または翌々日)職場(銀座郵便局)に行く途中で店のポストに返却するのが常だった。

 ある日の夜、TSUTAYA亀有店からの電話。自分が借りていたDVDが返却されていないということだった。返却予定日から10日以上経っていたと記憶している。

 しかし、自分には、そのタイトルのDVDを確かに返却した自覚があった。

 そしてその旨を電話の相手に伝えた。

 相手は(納得したかどうかは知らないが)了承したとのことだった。

 電話を切った後、5畳ほどの狭いワンルームを見回した。

 自分がいつも借りてきたものを置いてある台(半透明の衣装ケース)を探った。

すると、そこにあった上着のポケット(この辺の記憶は定かでない)の中から、あの目立つブルーのカバーケースが出てきたのだ。

ここでこの事例を取り上げたということは、もちろんこれが罠だと主張するためである。

その理由を挙げてみると、

       以前関東にいた頃から数えると、軽く100枚以上のDVDを借りているはずだが、自分はこれまで一度も返却を忘れたことはない。(分かっていて一日遅らせたことは何度かある)

       自分は時間が経つにつれて金銭が加算されていくシステムについては常に神経質であり、物を返すまでは必ず頭にある。

       TSUTAYAのカバーケースの鮮やかなブルーは、借り手が忘れないための配慮だと考えられるが、自分は必ずそれが見えるように部屋に置いておく。(それが見えなくなるような置き方はしない)

 これをどう処理したかについては書かない。下手なやり方だったなあと今では後悔している。(もちろん遅延金は払っていないのだが)

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8-6 社会形成の基盤  ある一日

6月25日は仕事が休みだった。この日はアパート近くの公園でブログ記事の下書きに費やしたのだが、現在の私に平穏な日があろうはずもなく、多数のキチガイに付きまとわれながら、未だに苦手な文章の構想を練った。

夕方になり、気晴らしに近くの中古CD店に行った。ここでもすぐにストーカーは寄ってくるので、特に目的がない場合は店内をさっと歩いてすぐに帰る、散歩のようなものである。

洋楽の棚に沿って移動していると、(どこの店でもそうだが)何枚かはジャケットの表面を向けて目立つように置いてある。その中の1枚に写る顔のところで自分の目が止まった。マイケルジャクソンである。しかし私は彼の音楽に興味がないので、すぐに視線を外して通り過ぎた。

一通り見終わり、同じルートを今度は逆方向に移動した。すると、またジャクソンと目が合う。たまたま私の目線のところにあっただけなのだが、なぜか私は彼の顔をしばらく凝視している。

そういえば、私は彼の音楽に興味がないといいながらも、ここ数日、" I love you more than he “ と何度か口ずさんでいる。

これはポールマッカートニーとのデュエット “ The girl is mine “ の一フレーズである(マッカートニーのパート)。数日前にFENからこの曲が流れてきた。このフレーズは、その時私が聞き取れた唯一の英語の部分というだけのことである。単に懐かしく思ったからであり、私はこの曲が特に好きというわけではない。

CDジャケット中のジャクソンの顔を見たときは、このことは忘れていた。そういえば、と思ったのは、それから約15時間後のことである。

翌朝ラジオのニュースで、マイケルジャクソン訃報の知らせが流れた。

以前にはこんなこともあった。

私はだらだらと長時間ネットサーフィンをするのが好きで、youtubeはよく見ていた(パソコンを壊されるまでは)。自分が見るのはほとんどが昔のポピュラー音楽で、アーティストがテレビに出演したときなどの生演奏を探す(CDでは得られない臨場感を求めるので)。

洋楽、邦楽は問わない。そして、ビートルズは好きなアーティストのひとつである。ビートルズはその活動期間で作風が大きく変わったバンドで、私がより好きなのは後期の作品である。ただ、彼らについては、初期のライブ映像は多く残っているが、後期のものはほとんど見られない。(1966年にライブ活動停止の宣言をしたらしい。これはこの記事を書く際に調べて知った。)
 しかし、たぶんないだろうと思っていても宝探しをしてしまうのがyoutubeの魔力で、ある日、一曲に絞って検索した。曲名は “ sexy sadie “ である。

曲は出てきた。しかし、やはり生演奏ものではなく、曲と別の映像を組み合わせたものだった。映像は、ビートルズのメンバーが滞在したインドの場所の現在の姿で、曲のテーマに合っている。私はこれをいただいた(ダウンロードした)。

そして何日か経って(10日から2週間だと思うが、確かでない)、“ sexy sadie “ のモデルであるマハリシ・マヘーシュ・ヨーギー氏死亡のニュースが流れた(2008年2月5日)。

ちなみに、私がパソコンに保存しているビートルズの曲は、この曲だけである。

私が関心を持った相手が死んでくれるというのなら、ぜひとも、嫌々でなく興味を持ちたい集団があるのだが(笑)、残念ながら私にそのような力はなく、「おまえ、今度死亡する有名人を当ててみろ」といわれても、そんなことはできない。

世の中には不可解なことはいくらでもある。興味を持てる分野もいくらでもある。私は、もし自分の置かれている状況が平和ならば、高校時代にやり損ねた学科などもまたやってみたいとよく思う(数学、物理、古典文学、歴史など)。

一方、最も関わりたくない存在というのが、他者の領域を侵害する者である。

この世でどんな絶対的権力者になろうが、存在の全貌は把握しきれない。精神・物質の全体を支配することはできないのだ。どんな人間も長くて100年そこそこの人生しかないのだ。

こういうことを、精神異常者たる集団ストーカー首領にいっても無駄なのだろう。

クズに正々堂々と戦えといっても無駄であり、ストーカーに付きまとうなといっても無駄である。通常人の想像力がないのである。それは圧倒的な欠如である。他者に対して共感できないのだ。

まともな人間の方からこの集団を解体させるアクションを起こすしかないと思う。

創価学会は個人・人格の存在を一切認めない。収奪の対象物でしかないのである。こんなやつらに関わりたくないからあっちへ行っていよう、と思っても、彼らの社会にはそういう自由はないのだ。集団ストーカーは、こちらが望まなくてもむこうの方からやって来る。

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8-5 社会形成の基盤  読売新聞5/31北岡教授のコラムを読んで

(序)

私がこれを書こうと思った理由は、

・「感情の吐露」という、一般的な使用頻度は高くないであろう言葉が使われている。(これは私が現状7で使った言葉である)

・記事の主題は「国益」

・後記に書くが、私と北岡教授は全く接点がないわけではない。

考えられることは、

a 北岡教授が私のブログを読み、参考にした。

b 創価編集者が北岡教授に記事を依頼する際に、「感情の吐露」を必ず使ってくれと頼んだ(ストーキングのために)。

c 単なる偶然。私の勘違い。

どれかは正解でしょう(笑)。東大教授ともあろう人が私なんかに、というのが常識的な考えだが、私は自分に降りかかる事象を見つめて可能性を探るしかない。

 北岡教授の記事内容は一見まともである。また、外交史の専門家として学問の蓄積がある教授に私が意見するというのもためらわれるところだ。

 しかし、それでも私なりのアプローチ・問題提起を試みようと思う。

(記事の要旨(教授の言葉をそのまま引用する))

 左右の極端な意見ではなく、中道に位置する人々の声を結集することが国益の実現に重要である。

(本論1)

○議論の土台(教授の見解)

 利益1の追求に、100のコストがかかるようなものは適切な政策ではないだろう。竹島問題について、私は日本が正しく、韓国の立場は誤りだと思うが、日韓関係をぶち壊してでも、竹島を取り戻すべきだとは考えない。

○私の意見 ‐竹島を取り戻すことは国益にかなわないか

 北岡教授は、竹島問題については日本が正しいとはっきり述べている。ならば、韓国による竹島占有は不法占拠、あるいは侵略ということになる。侵害されている法益は百分の一にたとえられるほどささいなものだろうか。

 私は道理や理念だけでこういうのではない。私は政治、さらには生きる事自体についてのプラグマティズムを認める立場である。例えば、政治家の世襲問題について、近現代の理念からはとうてい認められるものではないと考えるが、もしも現在、売国・侵略をくい止めるために必要というのならば、「この問題を一時棚上げすること」もかまわないと考える。(例えば、売国議員が、今緊急の課題である「侵略」問題から国民の目をそらすために「世襲」問題を強調する場合など。)

 いったん外国勢力に侵略されたものを元に戻す事は、国内の盗人議員を引きずりおろす事よりはるかに困難だからである。現在の米軍基地や北方領土を考えれば、私にはそう思える。

 プラグマティズムについて続けると、日韓関係は、日米関係とも日中関係・日露関係とも異なる。つまりは相手の国力のことである。領土を侵略されて黙っていなければならないほど日本が韓国に依存していることはあるのか。失う100とは何なのか、教授の文面からは明らかでない。

私が思いつくことは、「逆ギレした韓国国民が各地でデモを行い、自分の身体に火をつける者が現れ、大使館や日系商店は投石でボロボロになり、外交官は国外退去を命じられ、商人の多くが帰国を余儀なくされる、日本の観光収入が減少する」、このくらいだろうか。

 現実にある可能性の中から最良の(最もましな)選択をすべき、という考え方に教授もたぶん同意されると思うが、領土を侵略されて放置することが最良の選択とは私には思えない。領土というのは、その場所の経済的重要性(資源が眠っているなど)の有無に関わらず最重要案件だと考える。

 イスラエルとアラブにしても、ウイグルと中国にしても、その争いは熾烈を極める。後者の場合、中国政府は「国内問題」と主張するだろうが、ウイグルからみれば自分たちが侵略されてしまった状態にあるということだから、さらに悲惨である。

 韓国人あるいは朝鮮人の国民性とはどのようなものか。

 私はこれまで、自分が朝鮮人・韓国人と名乗る人物に接触したことはほとんどない。しかし、次のような事情から、ここの国民性、社会形態には大きな問題があり、日本(日本に限定しない)に取り込んだ場合、日本のよい面がすべて潰されてしまうことになるだろうと、今のところはそう考えている。

1)私に集団暴行をはたらいているのは創価学会である。(事実)

2)創価学会は、主に先進諸国において危険なカルト宗教と認定されている。(事実)

3)創価学会は朝鮮半島勢力の代弁者だといわれている。(ネット上での通説)

4)日本において、朝鮮半島起源のイカサマ宗教が多い。イカサマ宗教の主たる目的は、幹部による金銭の巻き上げあるいは強姦である。(事実)

5)在日朝鮮半島人の日本における所業について、悪評が絶えない。(事実)

6)朝鮮半島出身者は世界各地で行いの悪さを批判されている(ネット情報)

7)大韓民国における強姦率は、他国に比べて非常に高い。(事実)

8)朝鮮民主主義人民共和国は全体主義的人権抑圧国家であり、国家主導で通貨偽造・麻薬密売・誘拐を行っている。(事実)

現在対馬の買い占めも問題になっている。譲れないところはちゃんと主張しなければ付け込まれるだけである。「関係をぶち壊している」のはあちら側だろう。「関係」「協力」「議論」これらを構築する際に、一方に最低限の資質がない場合、他方は消耗するばかりである。

(本論2)

○議論の土台(教授の見解)

 極端な意見をことさらに強調するのは、民主主義の自殺行為である。近頃の一部のメディア、それにネット世論には不安がある。とくにネット世論は、ただの感情の吐露になりがちである。

○私の意見 ‐ネット世論とは何か

 北岡教授は「専門家」と「一般国民」を対置している。そうすると、専門家とは大学教授や実務家(政治家・外交官)を指すものと思われる。

 一方、それに対置されるのは、感情に流されやすい「一般国民」が形成する「ネット世論」である。匿名掲示板の意見はその代表例だろう。

 そこで疑問である。ネット上には個人が発する多数のブログが存在する。その担い手は「専門家」以外のものが大部分を占める。

 ただしその中には、鋭い視点の、多数の閲覧者を集めるサイトがいくつか存在する。そのような、「専門家」ではないが一目置かれるサイトの見解はどうなのだろう。

 ネット上は様々な意図が渦巻いており、偽情報も多数存在する。しかし、その中に宝が眠っており、それを探すのがネットの大きな魅力でもある。

 私は、専門家が専門家となるために払ってきた努力や能力を尊重するし、匿名掲示板と比較して、「一般的な信頼性」は認めるが、それは確定的ではなく、玉石混合なのは結局どちらも同じではないかと考える。

(本論3)

○議論の土台(教授の見解)

 左右の極端な意見ではなく、中道に位置する人々の声を結集することが、国益の実現で重要である。

○私の意見 ‐左右の極端な意見とは何か

 今日における左右の対立とはいかなるものか。まず、2つのモデルを提示する。

ア 政治制度の選択(純粋国内問題)

(右)自由主義・民主主義 vs (左)社会主義・共産主義

イ 国防問題についての姿勢(国際問題)

(右)排外 vs (左)協調

 北岡教授が想定しているのは不明だが、イの方だと考える。理由は、

     ネット上で議論が盛り上がるのはイ

     北岡教授の専門は外交史である。それに近いのはイ

     最近の経済破綻で、国家が経済・金融に対していかに関わっていくかが問題になっているが、それは自由主義内での対立と考える。(つまり、アはあまり今日的な問題ではないと考える)

 「極端」とは、「はなはだしく一方にかたよっていること。常識などから非常に外れていること。また、そのさま」とある。(大辞林)

 左右ではなく中道だからよしとする、というのは理解しにくいが、具体的政策についての妥当性を吟味すべきという意図ならばわかる。以下では、ある争点につき、その妥当性を検証する。

争点

日本国民が有する諸権利を外国人に付与することは妥当か

検証

 諸権利の具体例としては、入国の自由、商業活動の自由、参政権の付与、日本国籍の付与などが考えられる。ここでは「参政権の付与」について論じる。

 前提として、そもそも外国人に対しては、「人間が人間であるがゆえに認められるべき人権」(現在私が被っているような目にあわない権利)は当然認められるべきだが、それ以上のものは認められなくても、倫理的な問題は何ら生じない。

 そして、「参政権の付与」は「日本国籍の付与」に等しい。参政権を持っていればいくらでも自分の権利の拡大ができるからである。

 人類は富をめぐって殺戮・強奪を繰り返してきた。そしていまだにそれをやっているのだが、ならば、人類は歴史に何も学ばない愚か者かといえば、そうともいえまい。

 ヨーロッパ市民革命、そしてその思想的基盤たる立憲主義の目的は、私がずっと主張している「個人の領域を守ること」である。

 ただし、これが完全に機能している国はいまだ存在せず、どの国がマシかといったレベルであろう。しかも、この思想に全く同意しない国もあり、立憲主義が普遍的価値観として全世界を席巻しているとまではいえない。

 そして、日本が外国人参政権を認めるとすると、新たに意思決定に加わるであろう住民の大部分の本国籍は、「中国」「北朝鮮」「韓国」の3カ国となろう。これらの国の価値観を人権感覚について私が判定すると、

 中国→最悪 北朝鮮→最悪 韓国→先進国レベルにはほど遠い となる。

 国の政治制度(中国:一党独裁 北朝鮮:一党独裁 韓国:一応民主主義)と構成員の民族性がどう関連するのかについては、私はよくわからない。しかし、中国人のウイグルでの行状、北朝鮮国内のひどい人権弾圧の話を読むと、ここの国には「他者を尊重する自律した個人」なるものは存在しないのではないかと思える。しかも3国共に反日的である。(韓国では親日的言論をすると強烈な社会的制裁を受けるため、言論の自由すら抑圧されている)

 民主主義の弱点は、多勢に無勢というところである。そして、多数の横暴を食い止めるために立憲主義は存在するのだが、結局は構成員の質に左右されるのであり、自律した個人よりも、固まって権益を拡大しようという集団が拡大してくると、憲法はただの紙切れに等しくなるだろう。全体主義的カルトの放置によって、その兆候はすでにみられるのである。

 民主主義は古代ギリシャ都市国家が源流である。そこでは構成員として「教養ある自律した個人」を想定している。現代日本1億数千万人を「教養ある自律した個人」として教育できているとはいえまい(小泉郵政選挙以前は一度も投票権を行使しなかった私もあまり偉そうなことはいえませんが)。しかも、そこに日本の教育システム外の、反日教育を受けた者が日本国の意思決定をすることは、どう考えても日本国のコンスティテューションに反する。

 グローバル経済と呼ばれる現代であっても、依然として国家権力が最強であり、国家同士の混沌とした争いに満ちた時代である。どんな無法国家でも国際関係上の建前では等価値である。

 北朝鮮は麻薬取引・通貨偽造・誘拐犯である。しかし、これを収容する国際刑務所があるわけではない。アメリカも法制度や理論は立派だが、対外的には相当えげつないことをやっている。(ベトナムやイラクでの一般市民殺戮など。ここが原爆を落としたことは正当化しえまい。「原爆を投下しなかったなら、その何倍もの犠牲者が出た。原爆は日本とアメリカ双方の多くの人命を救った」などという言い訳を鵜呑みにする感覚が私には信じられない。「多くの人命を救った」という言葉の裏には市民に対する配慮が考えられるが、それは原爆という無差別大量殺戮兵器を使用した行為と真っ向から矛盾する。しかも2箇所に落としたのだ。さらにしかも、この兵器を実際に使用したのはこの国だけである。)

 よって、依然として国境が国民の防波堤である。

 北岡教授は「極端な意見をことさらに強調するのは、民主主義の自殺行為である」と説いている。

 私の見解は、右か左かといえば、右なのかもしれない。しかし、極端な意見だとは思わない。

 民主主義とは、自分の運命は自分で決定するということであり、その根底には「個人の尊重」がある。今の日本で外国人参政権を認めることは、個人を尊重しない価値観を有する人間に意思決定を委ねることにつながり、その先は、個人を尊重しない国になるということである。その兆候もすでにみられる。

 有能な外国人を積極的に活用しようという議論がある。ならば、「有能な」外国人を選別する「厳しい」しかも「政治的意思決定権以外の権利についての」選別制度を導入すればよいだけのことだ。参政権である必要はあるまい。

(後記)

 今から20年くらい前、私は立教大学の学生で、北岡先生は立教大学法学部教授だった。

 大学では3年時からゼミに参加することができる。私はやる気のない、成績の振るわない学生だったが、ゼミに入らないというのも不安だったので、履修要綱から何か興味のありそうな分野を探した。

 そこで候補に選んだのが北岡教授のゼミ(日米関係)だったのだが、選考に落ちた。申し込んだ時から、自分の成績では難しいかもと予想はしていた。

しかし、それが分かっていても、自分が選考という形でバッサリ切られるというのは面白くないものである。

私はこの不愉快な気持ちをどうにかしなければと、包丁を持って先生の研究室に、ではなく、何か別の形で解消したいと思った。

その時考えたのは、北岡先生の一般の講義で良い成績を取るというものだった。すばらしい答案を書いて自分の実力を示してやろう、先生は人を見る目がないんだと実感させてやろう、ということである。

私は書店で大学受験用の日本史年表を買い求め、それと先生のテキストを教材に大学図書館通いを始めた。

そして数ヶ月が経ち、年明けの試験本番は池袋の5号館大教室で行なわれた。

論述のみの2問。2問目はテキスト中のテーマそのままが題材にされていた。(たぶんこれができればC(可)はやろうというお助け問題だったのだろうと思う)

問題は1問目で、「山県有朋と伊藤博文を比較しながら論ぜよ」というものだった。

私は問題文のところで目が止まってしまい、しばらくそのままの状態だった。面食らったのだ。確かに両者共に超有名人で、近代日本政治史には欠かせない人物だが、比較しろといわれても。

覚えられない頭で試験直前まで詰め込んだのだが、両者の接点は自分の記憶からは出てこず、この場で考えるしかないようだった。

先に2問目を仕上げて考え込んでいるうちに何分かが過ぎた。

すると、ガタガタ、バタバタと大きな音が大教室を響き渡り、それは1分くらい続いた。半分以上の学生が教室を出て行ってしまったのだ。

当時、立教法学部の専門試験は確か開始20分後の放棄が認められていた。もちろん完解して退場でもよいのだが、9割9分は「降参」だろう。

騒音が収まり、すっかり人が減って風通しが良くなった大教室で、私も気を取り直し、ようやく1問目の解答の構成に取り掛かった。そして、なんとか「共通点と相違点」という形で書き上げた。すばらしい答案とはいかなかったが、出て行った学生の多さから考えて問題の難度も高かったようだし、B(良)はくれてもいいんじゃないか、もしかしたらA(優)かも、と、試験後は調子のいいことを考えていた。

結果はAだった。Aの一つでこんな自慢話をするやつもあまりいないだろうが、これが北岡先生の思い出である。

「ペーパーチェイス」という映画がある。昔テレビで見たのだが、アメリカのロースクールの話で、学生と鬼教授との緊迫した場面が見所の一つである。

しかし、学生の思いとは裏腹に、教授の採点シーンはクールなもので、機械的作業の様相である。主人公にはAをつけたが、教授には何の感慨もないようである。そもそも学生の個性に関心がないように見える。

私自身も、博士論文でもあるまいし、学部の答案程度で教授の目に留まるなどとは本心思っていなかったはずである。

私は自分の情けない現状に、自分なりのけりをつけたかっただけなのだ。

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8-1 社会形成の基盤  世襲の是非

(前提:望ましい社会とは)

 望ましい社会を想定してみる。大部分の人が賛同するであろうごく一般的なものである。

○第一段階(最低限のもの):個人の領域・安全が守られる社会

社会が形成されるとは、個々の人間が関係を構築するということである。そのためには、自分が侵害されないという相手に対する信頼が必要になる。そこで、互いに相手を侵害しないという無言の契約が結ばれることになる。

 しかし、人格は一代限りであり、個性も様々、とんでもない欠陥も一定数発生するため、法や刑罰が必要となる。

 多様な価値観、価値観の変化といっても、この点は譲れないところである。もし、絶対的な悪は存在しないというのならば、

 一人を多数でいじめたおすことが正当化しうるのか?

 子供をなぶり殺しにしてよい理由がありうるのか?

 強姦が美徳とされる時代が来るというのか?

 本当にそう思うなら、公明党のマニフェストで堂々と主張したまえ、といいたいところだ。

 このカルト教の問題は、一方(裏面)で集団ストーキング(集団暴行)などを行ないながら、他方(表面)ではポルノ写真の所持のみを処罰しようとする点にみられる。

 これらは表裏一体である。他人になんら危害を加えていない者を処罰したい者は、処罰自体がしたい者、他人をただ管理したい者、すなわち他人を侵害したい者と考えざるを得ず、そいつが異常なのである。そいつこそ処罰されねばならない者なのだ。カルトにとっての「法」とは不法の手段にすぎないのだ。法を立脚する基盤となる正義の観念が存在しないのだから。

 カルトが立法・行政にいるということはそういうことであり、最低限度の個人の安全が守られないことを意味する。

○第二段階:公正な競争社会

 理想を言えば、成功はそれをやり遂げた個人一代限りで、子供は一線からヨーイドンというもの(機会均等)だが、まだまだそれが望める社会でないことは私にもわかる。

 第一段階は私の現状に対応し、第二段階はここでのテーマ(世襲の是非)に対応する。

(世襲の是非)

1 評価の甘い国

○議論の土台

 石原都知事発言(2009.6.12)

 「結局、人物本位だと思う」

○私の考え

 ある人物が適正か否かどのように評価するか。少なくとも、親の影響がない場所で個人の能力が試されねばならない。

 石原氏は画家の四男(延啓氏)を都の事業に参加させたことを批判されたが、その際に彼が発した言葉が「余人をもって代え難い」である。この話題は世間でそこそこもりあがった。しかし、冷笑されるだけで終わってしまうところがこの国の閉塞感が揺るがないゆえんだろうか。

 石原家の私的領域内の話ならば、「うちの子は天才ざますから」と言おうが、「親バカ」で済まされるが、この事例は実質的には横領・背任に等しい。

 盗みだとわかっていてもどうにもならない国。最近のイギリスと比較してみよう。いくら裏がひどいのは同じでも、バレればただでは済まないのがあちら側、という点で、言論に対するモチベーションが違ってくるのではないかと考える。

2 先入観(先入的評価)について

○議論の土台

 自民党公認候補小泉進次郎氏は小泉元総理の次男。以下は彼の経歴

 関東学院大学卒業 → 就職せず → コロンビア大学院 → 米国シンクタンク

○私の考え

 この経歴を見て、アメリカでのものは完全に親の力で、カムフラージュにもなっていないと思ったが、ネット上の議論を見ても同様だった。

 国会議員の家系ならば、有名私大の附属にもぐりこませて、コネで就職させる事は簡単だと思われるのに、なぜそうしなかったのか。親がルーズなのか、若い頃に離婚した事情によるのか、あるいは、どんなお膳立ても無力なダメ息子だったのか、私にはわからない。

 もし小泉元首相がよき(実績を上げた)政治家で、子息に地盤を継がせるなどと言わなければ、上記の事情はすべていい方に解釈されただろう。「おおらかな」「小泉さんらしい」という風に。

 しかしそういうことではないので、進次郎氏の人物評価に手心を加える必要はあるまい。

(ただ、私としては、石原氏のように、小学校から慶応に入れてしまって、一流企業と完璧なレールを敷いてしまったほうが姑息で厄介だとは思うが。)

 関東学院大学というのは、世間的評価はたぶん低いのでしょう(私は私学のレッテルを上から真ん中くらいまで言えるが、その中にないので)

 しかし、そういう「先入観」は個人によってはもちろん覆されうるものである。

 田中角栄は小学校卒で、政治家としての評価は分かれるところだろうが、「小学校しか出ていないのにすごい」と言われることはあっても、「無能」という評価は聞いたことがない。

 ただ、「覆されうる」といったように、レッテルを覆さなければならない分ハンディを負うのだ。(東大卒がこの逆で、有能の推定が働き、こいつは実はたいしたことがないと言いたい側が立証責任を負うわけである。)

 建築家の安藤忠雄氏のように圧倒的な実績があれば、建築界においても「高校卒」は全く問題にならない。

 2人の例を出したが、このくらいギャップが大きいと、逆に低い学歴が勲章のように目を引くことになる。(田中角栄は「今太閤」といわれ、豊臣秀吉にたとえられた)

 だから、小泉進次郎氏は、劣勢を覆すだけの何かをするしかあるまい。それは選挙に勝って「民主主義の洗礼を受けた」などと開き直ることではない。

 まず自分ひとりの力で生活をし、なおかつ自分が国益を担える人物であることを証明しなければならない。これはたやすいことではあるまい。

 彼が議員になりたいというのは、社会の風に身一つでさらされたくないからであり、生活保護を年2000万円くれというようなものだと、私は「先入的評価」をする。

 何度も言うが、それが当たっていない事を彼が「別の場所で」証明するしかないのだ。

(後記)

 石田徹也氏は画家である。若くして逝った(2005年 31歳)。彼の絵のほとんど全ては自画像をモチーフにしたもので、社会風刺、社会批判を思わせる強烈な画風である。

 彼の作品の一つに「面接」がある。私が解釈するならば、「日本の会社が大学生のサラリーマン適合性を顕微鏡で見るように緻密に精査する。面接前からその事が分かっている大学生の目は死んでいる」というものだ。明確なメッセージが見て取れるので、誰が解釈しても同じだろうと思う。

 そして私といえば、留年を繰り返し、就職はしなかった。(片手くらい受けたが、本気で就活をしたとは評価されないだろう)

 そういう私だから、自分の経歴に関して、いちいち「この間は何をしていたんだ」とか詮索されることは好まない。

「そんなの私の…」と言えるはずもないから、言い訳を考えるのが一苦労だし、そういうことを思考する自体が嫌である。(キツネとタヌキのバカし合いだと始めからわかっているとしても、それをこなすのが社会人だと言われれば、返す言葉はないが)

 そういう私でも、小泉進次郎氏については臆せずものが言える。彼は国民代表になろうとしているのだから、万人による厳しい審査を受けるのは当然である。

 そして、この日本社会が、一方では経歴の一分の隙もなく、自分が会社に役立つ事を説明するよう要求しながら、他方では能力の審査もなくパスさせる、この矛盾について考えずにはいられない。

 社会の大部分のコンセンサスが得られない社会、それをごまかそうとする(マスコミなどによる)策略のみが横行する社会、その行き着く先はモチベーションの低下、文化の停滞、犯罪の横行、そして、内戦だろうか。

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